ダイヤグラム

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 * 「おまえさあ、せめてもっと手の届く範囲で恋しろよ」  昼休み。弁当を家に忘れたおれは、購買で買った菓子パンを腹に送り込んでいた。悪友の銭谷(ぜにや)がそのザマを憐れんでか、自分の弁当に入っていたコロッケを半分、弁当箱の蓋にのせてこっちに押しやりながら言ったのが、そんな台詞だった。  ざーす、と形だけ礼を言いながら手づかみでコロッケを口に放り込む。 「相手の学年も名前もわかんねーんじゃ、話にならんべ」 「いや、同級生だと思う。教科書読んでたときもあったんだけど、おれらが今年使ってるやつと一緒だった」 「わかんねーぞ。その子の学校、北陽ヶ丘なんだろ? 超進学校。ウチみたいなバカ学校と違うんだ」 「なあもうこの話やめない? 惨めになってきた」 「いーや、やめないね」  おれと同じく、北陽ヶ丘高校に落ちてここにいるはずの銭谷は、たいそう愉快そうな面持ちで続ける。 「ってか稲積(いなづみ)のその横恋慕な気持ちはいつから芽生えたんだよ」 「おまえ、その言葉の意味わかんないで使ってるべ」 「毎朝、数分だけ横にいる人へ恋してんだから別によくない? 横、って漢字も入ってるし」 「あのな。横恋慕ってのは、恋人や配偶者がいる相手に恋をすることだぞ」 「どうだか。その子に彼氏がいねーなんてこと、いまのおまえには断言できんべや」  噛み砕いたコロッケを飲み込んだあとでよかった。死因がコロッケを喉に詰まらせたことによる窒息死では、さすがに親に申し訳がなさすぎる。  確かに、彼女のことは外見と学校以外は何もわからない。それに、気味悪がられず確かめる術も持ち合わせていない。なにせ、おれは寿命と引き換えに死神と取引でもしなければ、相手の名前もわからないままだ。 「銭谷。おまえなら、どうする」 「ん?」 「相手と接点は普段なくて、名前もわからず、物理的に声も掛けられない。でも好きになっちゃったらどうしたらいいんだ」 「ふむ。そう言われりゃ、そうねえ。どうするべな」  ふりかけごはんを咀嚼(そしゃく)しながら、銭谷は考え込む仕草をみせた。なんだかんだと言いながら「そんなもん知るか」と一蹴しないのが、こいつのいいところだ。そうでないならおれだって、昼休みのたびにこいつと机をくっつけながら飯を食ったりはしない。  ごはんどころか、ついでにほうれん草の胡麻和えまで平らげたあと、ようやく銭谷は口を開いた。 「チャンスを活かせ」 「は?」 「だって、話しかけられなくても、毎朝すれ違う瞬間はあるんだろ。そこでアピールするしかねえべ」 「どうやってさ」 「そもそも稲積の話を聞く限り、おまえはその子を目で追ってても、逆にその子はおまえの存在に気づいてないっぽいし。そこから始めろ」 「始めるって、どうさ」 「どうすればいいと思う?」 「おれが訊いてんだ」 「窓越しで相手に存在を気づいてもらうためにどうすりゃいいかなんて、稲積のほうが頭いいんだからいくらでも思いつくべ」  頭がいい、なんてことはペーパーテストの数字だけで判定できるものではない。勉強ができることと、発想力や応用力があることは別問題だと思う。 「何回か(こいつ今日もいるな)って気づいてもらえたら、相手だって自然とちらちら様子を伺うようになるだろ。そのたび、おまえは窓越しでにこやかに笑いかけるなり、変顔するなりしろ。相手の目に触れる回数が増えれば、相手もこっちのこと気にするようになるもんだ」 「変顔は無理だな」 「たまに無理でもしなきゃ、いざってときに何もできない腑抜けになるぞ。相手に気づいてもらえなきゃ、その気持ちも届けようがねえんだ」  銭谷は時折、こういう熱血テニス選手みたいな台詞を吐くときがある。普段は茶化すのだが、今日はその台詞が妙に、胸の奥へ突き刺さった。  無理、かあ。  結局、高校受験のときにもそれができずに落ちたような気がする。そうでなければこいつと出会うこともなかったが、同時におれは彼女の存在を見つけ出すことができただろうか。自分の好みに合致する異性と出会う確率は、コインを五十枚投げてすべて裏が出る確率とどっちが高いのだろう。北陽ヶ丘みたいな一学年に八クラスもあるでかい学校じゃ、もしかしたら同じ学年でも、一度もお互いを知らないまま卒業することになったかもしれない。  それに比べりゃ、確かにチャンスだな。  こういうとき、自分の単純な性格は役に立つ。 「アドバイス、感謝」 「なんも。そんじゃ、付き合うことになったらちゃんと紹介しろよ」  銭谷は手品みたいにすばやく弁当箱を片すと、さっさと机を離して教室を出ていってしまった。
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