ダイヤグラム

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 そもそも今日の彼女が手にしているのは、参考書でもスマホでもない。紙の長辺へ規則的に穿たれた穴から察するに、一枚のルーズリーフのようだ。  目線がぶつかりあったとき、彼女はそのルーズリーフをおれのほうへ向けて示してきた。書かれているのはアットマークから始まる、何かのIDらしき英単語。  SNSアカウントのIDだ――と気づき、反射的に制服のポケットに手を突っ込み、スマホを引っ張り出す。外では発車メロディが鳴りはじめた。もう時間がない。ロック画面を突破することすら煩わしい。  ホーム画面を開いたけれど、そもそもあれ、どのSNSのIDだ。彼女もおっちょこちょいなのか、あるいはおれを試そうとしていてわざと書かなかったのか。  入試の本番でもここまでのポテンシャルは発揮できなかっただろう。おれは自分のスマホのホーム画面を指差しながら、大きくマルを描いてみせる。どれのこと言ってんの、ということを他の手段で伝えるには、あまりにも時間が足りなさすぎる。  同時に、おれの乗っている電車のドアが閉まった。一瞬そっちへ目線をやってから、また窓の外のほうを向いてみると、彼女がスマホを横持ちにしてこちらに向け、おれの写真を撮るようなポーズをとっていた。しかし、彼女はスマホの画面ではなく、おれのほうをじっと見つめている。  なるほど、これは彼女がとっさにしたジェスチャーだ。そんな閃きが脳天から突き抜けていった瞬間、互いの乗る電車が少しずつ、それぞれの方向へ動き出す。  また今日も、引き離されてしまう。  おれは記憶が飛ばないうちに、適当にwebブラウザを立ち上げると、彼女のアカウントIDをアドレスバーにメモした。  たった一分そこらのことだったのに何故かひどく疲れてしまって、気づいたときには電車が学校の最寄駅に着いていた。そわそわする胸の心地をおさえながら電車を降りたおれは、今日はバス停をスルーし、歩いて学校を目指すことにした。カメラのポーズをしていたということは、インスタグラムのことだろうか。アイコンがカメラだし、その可能性はきわめて高いように思える。  インスタグラムのアプリを立ち上げると、検索画面にさっきのIDを入力する。全部の文字を打ち終わる前に、ひとつのアカウントがサジェスト表示された。  アイコンは設定されていない。ニックネームは平仮名で「まど」。ははあん、彼女の名前は「まどか」とかなんだろうか。円と書いて「まどか」と読む苗字の可能性もある。テストの時にこの頭の回転の速さがどうして活きないのか疑問になるほど、おれは浮かれていた。  しかし、同時に不安にもなった。これが何らかの「釣り」だったとするならば、おれはとんでもないピエロとして踊った記録を未来永劫、人生という一冊の本のページに刻んでしまうこととなる。いっそ何もしないほうが、誰も傷つかなくて済むのではないか。おれも、彼女も、所詮はただ毎朝の電車で反対方向へすれ違う、窓越しの関係だったなら、何も――。 (たまに無理でもしなきゃ、いざってときに何もできない腑抜けになるぞ)  銭谷の言葉が脳裏をよぎる。  いざってとき。  それって、今のことじゃないのか。  そうだ、きっと今なのだ。しかも今日はこちらから何かを仕掛けようとするより先に、彼女のほうからアクションを起こしてくれたのだ。個人的にはラッキーだったが、たぶんこれを銭谷に話したら、相手に先手を打たれたことについて手厳しい言葉を賜るだけだろうから、何も言わないでおこうと思う。  でも、もしも彼女とお近づきになれたとして、天地が逆転してお付き合いがスタートしたとすれば、詳しい馴れ初めを語らなければなるまい。その時にどんな言い訳をしようか。彼女も決して消極的ではない……ということが明らかになったわけだし、その時はうまいこと、口裏を合わせてもらうよう話を――。  すっかり脳みそだけが先にお花畑へズカズカと踏み入っていたら、腑抜けた親指がディスプレイの上へ垂れた拍子に、検索ボタンをタップしてしまっていた。心の準備をする時間を与えてくれないまま「まど」のアカウントのトップページが表示される。違う、心の準備をする時間に馬鹿げた妄想をしていたのはおれだ。数秒だけ行いを省みてから、自己紹介欄の一文に、目を走らせる。 〈あなたのこと、ずっと見ていました〉  えっ?
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