あと一回で殴る

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あと一回で殴る

「オマエ、お笑いのこと分かってない」  ブレイクした後輩芸人に酒の席で詰められた。  せっかくラジオ番組に呼んでもらったのに大スベリしたのだ。 「オマエの代わりなんていくらでもいるんだよ」  年下にダメ出しされてみじめだった。  しかし、ひと笑いも起こせなかったのは事実だ。 「オマエみたいにさぁ、中途半端な先輩が一番扱いにくいんだよね」  今や冠番組を持つスターになった後輩。  腹は立つが、ここでケンカして困るのは自分だ。 「聞いてんのか、おいッ」  頭をコンッと突かれ、さすがにムカついた。  だが、反論できない。 「オマエのこと言ってんだよ。分かってる?」  今度はテーブルの下から蹴ってきやがった。  グッとこらえて奥歯を噛む。  だが、ほぼ我慢の限界だった。  誰が「オマエ」だって?  俺は先輩だぞ!  あと一回「オマエ」と言ったら殴ると決めた。 「何で黙ってんの? 何だよ、その目は」  ムッとしていることはすぐにバレた。  俺は先輩だぞ、と心の中で呪文のように呟く。  呼吸が荒くなる。 「つまんねえヤツだな。だから売れねえんだよ」  ツマンネエヤツ?  もう一回言ってみろ! 「おい」  おしぼりを顔に投げられた。  早くもう一回「オマエ」と呼べ。  そして、俺に殴られろ。 「おい」  今度は空になった枝豆のサヤが飛んできた。  もはや殴るのは百パーセント決定だ。  胸ぐらを掴んで鉄拳を食らわせてやる。 「なぁ、先輩……」  突然、涙声が耳に入った。  顔を上げると、後輩の頬に涙が伝っている。  どうした? 毒舌がウリのお前らしくないぞ。 「何か言い返してくださいよ!」  エッ、言い返す?  言い返してほしかったの? 「前みたいに怒鳴り返してほしいんスよ」  そんなの分かんねえよ!  後輩の泣き顔を見るのは初めてだった。  俺のために泣いているのか?  何のお返しもできない俺のために。 「あと一回モノを投げて何もなかったら……」  あと一回俺にモノを投げて何も反応がなかったら?  どうなってたの? 「先輩とは縁を切ろうと思ったんスよ!」  おっと、それは困る。  ダメだよ。  俺を見捨てないでくれ! 「でも……先輩を切るなんて出来ないっス」  そう言って後輩は泣いた。  すまない。  ふがいない先輩で悪かったな。 「頼む。あと一回だけチャンスをくれ」  なけなしの千円札をテーブルに置いて俺は店を出た。  あれから十年。  俺は後輩が副業でオープンした居酒屋の店長をやっている。 「頼む、あと一杯だけ!」  泥酔したサラリーマンのおやじさんに懇願される。 「明日、出勤できます?」  心配しながらも、その頼みには弱い俺だった。 (了)
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