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源左衛門が長屋に帰ってくると、旅姿の侍が立っていた。
源左衛門は眉をひそめ、自分の長屋へと歩いていった。
「原口!」
名前を呼ばれ、源左衛門は侍を見た。
見覚えのある顔であった。
「木村省吾」
源左衛門は思わずその男の名を口にしていた。
その他に米形の山本道場に住み込みで師範の世話をしていた山城という若い侍と、名は知らないが、米形藩士である男の姿も見える。
「やっと会えた」
木村が笑顔を見せながら言った。
「いったいどうして」
「それはこちらが聞きたい」
狼狽えた源左衛門の言葉を捉えて木村が言う。
「まあ、とりあえずあがって下さい」
そう言うと源左衛門が先に家に入り、雪乃に客だと伝えた。
小さな部屋に、ひざを突き合わせるようにして三人の客と源左衛門が座った。
「お兄さんは元気でいらっしゃいますか」
源左衛門は木村省吾に尋ねた。
「はい。本来ならば兄がここに来なければならないのだが」
「いえ、それは。ならば手のほうは元のように治ったのですか?」
「いや、残念ながら剣を振うことはできない。しかし兄はそのことに何の悔いはないと言っている。それよりも原口が城下を出るような事態を招いてしまったことを、とても後悔している」
「そんな。木村様の腕を折ってしまったのは私の未熟の故のことでありますから」
「違う。兄はどれだけ鍛錬を重ねても、原口には追いつけないほどの腕の差があるということは心得ていた。ただ。ただ、一度だけでいいから原口と本気の勝負をしたい。それが兄の願いだった。道場での実戦形式の稽古でも、御前試合の場でも原口が全力を出していないことを兄は知っていた」
訴えるように話す木村の言葉を、源左衛門は黙って聞いている。
「兄は一生に一度でいいから原口と真剣の勝負をしたい、原口が真剣になるにはどうすればいいか、そればかりをずっと考えてきた。そして至った結論が、あの御前試合での戦い方だった。殿の前で本気でかかっていけば、原口も本気にならざるを得ない。・・・・その結果、原口が米形を出ていったと聞き、兄は私に何としても原口を捜し出し、米形に連れ戻せと命じた。もしそれが叶わぬとなったら、その場で腹を切れと。そして私が腹を切ったと聞けば、自分も腹を切ると言った」
「何も、そんな」
「それほど原口は米形藩にとって必要な人なのだ。米形に帰ってくれるな?」
「先生も道場を継ぐのは原口先生しかいないと申しております」
木村の後ろに座っている山城も、真直ぐな目で源左衛門を見て言った。
「藩主様からも、原口殿が他の藩に召し抱えられる前に、何としても連れ戻して来いと命じられています」
木村の隣に座る侍も続いて言った。
「わかりました。有り難いお言葉の数々」
源左衛門は目頭が熱くなり、思わず視線を下に落とした。
「米形に帰ってくれるな?」
木村がもう一度、念を押すように言う。
「はい。愚かな私のせいで多くの人に迷惑をかけてしまいました。これからは米形藩のために、身を尽くして働きます」
米形から来た男たちは安堵して顔を見合わせた。
「あなたたちはいつ米形を出られたのですか?」
源左衛門は木村たちをねぎらうつもりで尋ねた。
「原口が米形城下を出た三日後だ」
木村が源左衛門の質問に答えた。
「え? それからずっと?」
「ずっと原口の行方を捜していた。私たちは原口ほどの腕があるのなら、きっと江戸へ行くだろうと考え、江戸にいる米形藩士たちと共に江戸中を捜し回って多くの時間を無駄にした。その後、美濃赤吹に原口がいるとの情報が入り、こうして参った」
「そうでしたか」
「よかったら明日にでも一緒に米形に」
その言葉に、源左衛門は少し考えた。
「私には足の遅い雪乃がいます。それにここ赤吹で多くの人に世話になったので、きちんと筋を通してから帰ることにします。申し訳ありませんが、先に帰っていてください」
「わかった。では米形でまた会おう」
そう言って三人は立ちあがると、丁寧に頭を下げて長屋を出ていった。
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