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突然の家老家からの婚約の打診に、原口家でも驚いて、てんやわんやの騒ぎになった。
父に呼び出され、長尾家の娘とはどのような関係なのだと怒鳴るように問いただされたが、源左衛門にとってもまったくの寝耳に水で、相手のことを思い出すまでにしばらく考えなければならないほどであった。
女子が道場見学に来ていると言われて、それが評判の長尾の娘だと聞かされたことがあった。その後二、三度、道場を訪れたようであるが、剣術に打ち込み、女には関心を持たないように心掛けている源左衛門は、それっきり忘れてしまっていた程度の存在であった。
源左衛門の父、勇一郎は何かの間違いであることを期待しながらすぐに断りの返事をした。実際何かの間違いとしか考えられなかった。
それから三度ばかり使いの者が原口家を訪れ、そのたびに勇一郎は丁重にお断りの言葉を述べた。
四度目には泰光自身が原口家にやって来た。
またもや原口家はてんやわんやの大騒ぎになった。
客間で泰光を前にして低頭したまま、勇一郎は身分の違いや、たとえ二人が結婚したとしても決して幸せにはなれないだろうことを延々と述べた。
「そんなことはわかっておる」
業を煮やした泰光がそう言い放ち、会見は終わった。もう原口家にとって長尾との縁談を断る術はなかった。
原口源左衛門と長尾雪乃の婚約の話は一大事件として藩中に広まった。そして多くの若い藩士たちをがっかりさせたのであった。
雪乃は婚約が決まると、それまで習っていた琴や歌のお稽古事をすべて辞めた。その代わり炊事場に立ち、煮炊きを下僕や下女に交ざって行うようになった。下僕を始め雪乃の母親や兄たちもそれを止めさせようとしたが、嫁げばすべて自分がやらなければならないし、不出来なものを出せば源左衛門さまに笑われてしまうと言い張り、顔をすすだらけにして働いた。
泰光もそんな娘の姿を見ていられなかったが、それほど雪乃が一途なら結婚してもうまくやっていけるであろうという安堵の気持ちもあった。
やがて源左衛門と雪乃は式を挙げ、道場の敷地の隅にある納屋を改装した家で暮らし始めた。改装と言っても建て直したといってもいいほどの大改装で、その費用のほとんどを長尾家で用立てた。また下僕か下女を一人寄越すと長尾から申し出があったが、身分相応の暮らしをするから要らないと雪乃が断った。
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