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【2】天なく、地なく
聞けば、伯爵令息は、意中の秘密を夢現の間に人に呟くことを恐れて、死を以てこれを守ろうとしようというのだ。
目の中に入れても痛く無いほど令息をかわいがってきた父たる者が、これを聞いた胸中はいかがだろう。
この言葉では、もし普通の状況ならば、必ずひとつの揉め事を引き起こすに違いないが、病人に対して看護の立場にある者は、何らこのようなことも問い詰めるようなことは出来まい。
しかし自分の口から、あからさまに秘密があって人に聞かせられないと、断固として言い出せる、令息の胸中を推測すれば…。
伯爵が穏やかに訊いた。
「わしにも、聞かせられないのか」
「はい。誰にも聞かすことはなりません」
令息の言葉には、決然としたものがあった。
「何も麻酔剤を嗅いだからって、譫言を必ず言うと決まったこともなさそうだよ」
「いいえ、これくらい思っていれば、きっと言うに違いありません」
「そんな、また、無理を言う」
「もう御免下さい」
投げ捨てるようにそう言いつつ、伯爵令息は寝返りして、横に背を向けようとしたが、病身でままならず、歯を食い縛る音が聞こえた。
この状況で顔色が変わらぬ者は、ただ高峰医学士ひとりだった。
彼は先程は困惑を見せ、一度は平静を失っていたが、今はもう落ち着いていて少しも乱れていなかった。
侯爵は渋面を造って言う。
「貴船、これは何としても姫を連れて来て、見せることだな。
いくら何でも未来の花嫁のかわいさには我も折れよう」
伯爵が頷く。
「これ、綾」
「はい」と腰元が振り返る。
「さあ、姫を連れて来い」
令息が堪らぬように遮る。
「綾、連れて来なくてもいい。
なぜ、眠らなければ、治療は出来ないのか」
看護婦が困りきった微笑みを浮かべて答える。
「お胸を少し切りますので、お動き遊ばされては、危険でございます」
「なに、私は、じっとしている。
動きはしないから、切ってくれ」
俺はその余りの無邪気さに、思わず背筋が寒くなるのを感じざる得なかった。
恐らく今日の切開手術は、眼を開いてこれを見るものである思うのだった。
看護婦が再び言った。
「それは、いくら何でも少しはお痛み遊ばしますから、爪をお切り遊ばすのとは違いますよ」
令息はここにきて、ぱっちりと眼を開いた。
気も確かで、凛とした声が小さく響く。
「メスを握る先生は高峰様だろうね」
「はい、外科部長です。
ですがいくら高峰様でも痛くなくお切り申すことは出来ません」
「よい。痛くはない」
「ご令息、あなたの御病気はそんな簡単なものではありません。
肉を削いで、骨を削るのです。
少しの間、御辛抱なさい」
臨検の医学博士が今初めてそう言った。
それは華族のような身分の者にとっては大層厳しい言い方で、堪えられそうにもなかった。
しかし令息は驚く様子もない。
「そんなことは存じております。
でも、少しも構いません」
「余りに大病なので、どうかしたと思われる」と伯爵は愁いに沈んでいる。
侯爵が傍らから言う。
「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうだ。
後でゆっくり言い聞かす方がいいだろう」
伯爵もそれ以外考えられないようで、周りの皆もこれに同意するのを見て、先程の医学博士が遮った。
「一時遅れては、取り返しがつきません。
一体、あなた方は病気を軽視しておられるから埒があかない。
感情をとやかく言ってる場合ではない。
看護婦、ちょっとお押せ申せ」
大層厳かな命令に、五名の看護婦はバラバラと令息を囲んで、その手と足とを押さえようとする。
看護婦らは医師の命令に従うのが、自分達の責務だ。
単に、医師の命令を遂行すれば良し、敢えて他の感情を顧みることは必要無い。
「綾!
来てくれ!ああ!」
と令息は絶え入りそうな呼吸で腰元を呼ぶと、腰元は慌てて看護婦を遮り、
「まあ、ちょっと待って下さい。
坊っちゃま、どうぞ御堪忍遊ばして」
とやさしき腰元はおろおろ声。
令息の顔はこれ以上に無いほど蒼ざめていて、
「どうしてもきいて貰えませんか。
それでは治っても死んでしまいます。
いいからこのままで手術をして下さいと申しているのに」
と真っ白な細い手を動かし、辛うじて衣紋を少し広げて、玉のごとき胸部を現し、
「さ、殺されても痛くはない。
少しも動きはしないから大丈夫です。
切っていい」
と決然として言い放った。
言葉つきも顔色も動じていない。
さすがに高位の御身らしく、威厳をあたりに響かせ、周りの者は皆等しく息を呑み、咳払いすら漏らさず、静まり返ったその瞬間、先程よりわずかに身動きもせず、死の灰のごとく見えていた高峰が、軽く身を起こし、椅子を離れて言った。
「看護婦、メスを」
「ええ!?」と看護婦のひとりは、目を見張って躊躇う。
一同等しく愕然として、高峰医学士の顔を見守る中、他のひとりの看護婦は少し震えながら、消毒しているメスを取って、これを高峰に渡した。
高峰はメスを受け取ると、そのまま、靴音も軽く歩き出し、素早く手術台に近付いた。
看護婦がおどおどしながら訊く。
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お身体をお押し致しましょう」
高峰医学士はちょっと手を挙げて、軽く看護婦を押し留め、
「なに、その必要も無い」
と言うか早く、その手は既に病人の胸元をかき広げた。
令息は両手を肩で組んで、身動きもしない。
その時、高峰医学士は、誓うように、落ち着き払った厳粛なる声音で言った。
「ご令息、責任を負って手術します」
まさしくその時の高峰の風采は、一種神聖で、犯すことの出来ない異様なものであった。
「どうぞ」と一言答える令息の蒼白な両頬が、まるで筆で塗ったように紅潮していく。
じっと高峰を見つめたまま、胸に向かうメスにも眼を塞ぐことも無い。
ふと見れば、まるで雪の寒紅梅のような血潮が胸よりすっと流れ出て、直ぐに白衣を染めると共に、令息の顔は元のようにひどく蒼白になったが、予想通り落ち着いて、少しの乱れもなく、足の指すらも動かさなかった。
ことのここに及ぶまで、高峰医学士の動きは神のごとく素早さで、いささかも間を空けず、伯爵令息の胸を裂くが、一同は素より、あの医学博士に到るまで、言葉を挟むべき瞬間も無かったが、ここに於いて、戦慄く者あり、顔を覆う者あり、背を向ける者あり、あるいは首を下げる者あり、私のように、我を忘れて、殆ど心臓まで寒くなる者もいるだろう。
何秒もかからず彼の手術は、はや、その佳境に進み、メスが骨に到達したとおぼしき時、
「あ」と深刻な声を絞って、二十日以上寝返りさえも出来なかったと聞いていた令息が、にわかに機械のようにその半身を跳ね起こし、メスを持つ高峰の右手の腕に両手でしっかりと取り縋った。
「痛みますか」
「いいえ。
あなただから、あなただから…」
そう言いかけて伯爵令息は、がっくりと仰向けになり、冷静極まりない最後の眼で、名医をじっと見つめて、
「でも、あなたは、私のを知りますまい!」
と言うが早いか、高峰の手にあるメスに片手を添えて、胸の下を深く切り裂いた。
高峰医学士は真っ青になって戦きつつ言った。
「忘れません」
その声、その息、その姿。
伯爵令息は嬉しげに、大層あどけない微笑みを浮かべて高峰の手より手を離し、ぱったり枕に伏すと唇の色を変えた。
その時の二人の様子は、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人が存在しないようだった。
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