Dance in the Light (ダンス・イン・ザ・ライト)

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 七千の兵など、出せるはずもない。  イフーデ竜月の熱風吹きぬける乾ききったアデルデの砂谷の物見の塔にたたずむあなたは、深い息をそこに吐く。  繰り返される戦役に、何度、谷から兵を送ったことだろう。そして谷に戻りくる生還兵は、そのつど、わずか。砂の雪降る谷下の窪地で、イル麦の畑を耕す人手も尽き果てた。今この谷には、ただ、熱夏をやりすごすわずかな蓄えがあるのみだ。  糧もない。果実も足りない。今では深井戸の水も心もとない。我慢づよい農耕獣のワンダたちも、乳が出なくて仔獣が育たない。アデルデの民には、何もかもが足りていない。  そして今この時期に。北異オウゥール王朝討伐の遠征軍に兵を出せ、などと。  最低でも七千、などと。馬鹿め。出せるものか。民が、とうてい承服するまい。われらに滅べと言っているのと同じことだ。  深い光を宿した黄砂色の瞳をわずかに上げて、あなたは夕刻の光ふる、切り立った渓谷上にわずかにのぞいた熱夏の空を強くにらんだ。熱夏はいまだ、終わる気配を見せていない。あるいは、あと二月。北にそびえるソグドの雪峰にも、霧雲ひとつ、かかることはないのだろう。 「イーハさま、」  うしろから声がかかって、あなたはゆっくりと振り向いた。  明るい砂色の皮鎧をまとってそこに立つのは、十八騎隊の頼れる参謀、ウーマだ。女ながらに―― と、かく言うあなたも女だが―― 女ながらに、ウーマはかれこれ八年、最精鋭の十八騎隊の長として、真摯に働いてくれている。部下たちからの信も厚い。ウーマは聡明そうな深い緑の瞳をもった、すらりと長身の麗人だ。そして事実、聡明だ。戦場でも平時でも、低く澄んだその声は、聴く者の心を不思議と落ち着け、とぎすます。 「イーハさま。ヴンドゥア帝府からの使者たちが、もう待てぬと。ただちに回答をと、水の広間で息巻いておりますが」  ウーマはかすかに首をかたむけ、あなたの瞳をまっすぐ見つめた。緑の瞳が、言葉のかわりに確かにあなたに問いかけている。『いかがいたしますか?』と。 「…兵は出せぬ、と。言うしかあるまい? 出せても、二千だ」  あなたはその場にわかりやすく息を吐き、あなたにしてはわずかに投げやりな視線を―― そこに立つウーマにではなく、後ろの谷の、夕陽を浴びた垂直壁に投げつけた。 「…しかし。それでは、ヴンドゥア側は、黙っていないでしょう?」  あくまで控えめに、ウーマが自分の意見をそこに述べた。否。それはじつは、意見ではない。事実だ。それは事実に他ならない。そのような無造作な回答を、ヴンドゥアの大帝が受け入れるはずもない。 「…だろうな。だが。それも、やつらの狙いだろう」 「狙い、と、申されますと…?」 「こちらが兵を出せないことは、先方側も、百億も承知ということだ」 「…ではなぜ、それをわかって、ヴンドゥア帝府は、あえてそのように過大な要求を…?」  潰すため、だろうな。  あるいは、盗るため、か。  あなたはしかしその言葉を、言葉にせずに、あなたの心にとどめて消した。  そう。おそらくヴンドゥアの狙いは、この谷を直轄領に置くための口実が欲しい。それだけのことなのだ。  反逆。帝府への不実。理由は特には、なんでもよい。  ただ、ここを盗るための。あるいはここを攻めるための。理由が欲しいだけなのだ。  だが、しかし。  それを今、この忠実なるウーマに述べたところで、何かが生まれるわけではない。  即座にそう判断したあなたは、言葉ではなく、苦渋に満ちた乾いた笑みを唇の隅にはりつけることで、そこで言葉を待つウーマへの返事にかえた。ウーマは片方の眉を上げ、何かをそこに感じ取ったようだが。ウーマの側でも、特にそれ以上の問いを発することはない。すなわち話は、それで終わりだ。 「しかし。今宵はまた、よく降りますね」  見上げて、ウーマがつぶやいた。  砂の渓谷の天井から降り落ちる、当地では「砂雪」と呼ばれる赤の砂塵のことを、ウーマは言っているのだ。熱夏の砂原を吹く南風が撒きあげる膨大な量の砂塵が赤茶の砂雲をつくりだし、高くたなびくその雲の峰より、毎夕、砂の雪が降る。粒子の細かいその砂は、古(いにしえ)のときよりこの谷に降り続ける太古の呪いであるとともに―― それは同時に、谷底のわずかな畑地に実りをもたらす恵みでもある。
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