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11.
熱夏の朝が明け始めている。
大門前の平らな砂地にひとり踏み出したあなたの肺を満たすのは、子供の頃から大好きだった夏の朝の砂雪の匂いだ。あなたは空をふりあおぐ。はじまりの空は、白さと赤さと明るさと、そしてあなたが名前を言えない輝く高貴な色をまとってあなたの世界をつつみこむ。
ああ、軽い。
あなたはそこに生まれた予期せぬ軽さに、心の底から息を吐く。
あれだけ担ってきた、代王としての重責。あなたがまもるべき、数多くのもの。あなたが守りたかった、小さなものたちの命の重み。あなたが大事だと信じてずっとずっと生きてきた、あなたがあなたであるべき、あなたをしばるあらゆる枷が。明けゆく闘いの砂地の上で、たちまち大気の塵となり、すべての重みが消えてゆく。
あなたは戦うだけでよい。
あなたは、まもなくあなたの前に現れるであろう、まだ名も知らぬその誰かと、剣と剣とで語らうだけでよい。
そして死ぬなら、それまでだ。そうだ。おそらくあなたは死んでゆく。
だからこそ。なんと心が軽いのだろう。なんと体が軽いのだろう。
あなたは、ただ、そこで誰かと剣を交えるだけでよい。それであなたの役目は、世界の中のあなたの役目は。それですべて、果たされる。
混じりけのない冴えわたる夏の朝の大気の底で。その、貴い光に満ちてゆく終わりない大空の下で。あなたは初めて心から。世界の果ての何かに向けて。無垢なる笑いを投げかけた。
すべてが軽い。まるで子供の夏に戻ったようだ。そこには果たすべき責任もなく。誰かがあなたに何かを求めることもなく。
ただ、駆けるのだ。熱砂の上を裸足でどこまでも駆けるのだ。夏の時間はどこまでも長い。夏の一日は、いまここに始まったばかりだ。
予期せずおとずれたこの深い心の静寂に。あなたは心からの微笑を、誰かに投げたくてたまらない。空が広い。砂が綺麗だ。この夏の朝が大好きだ。真夏の空が大好きだ。砂雪の匂いが大好きだ。真夏の風が大好きだ。熱夏の砂漠が大好きだ。嵐をはらんだ砂雲の色が大好きだ。この地のすべてが、大好きだ。
あなたの視界の彼方に、黒一色で固めた帝国重装兵たちの広い連なりが見えている。あなたは予期せず、その、敵であるはずの彼らにも。喜びの声を伝えたい。そしてまもなくあの黒の群れの中から歩み出てくる、あなたの命を奪いに来るはずのその者に。心からの、朝の祝福を伝えたい。ああ、自分は今、しあわせだ。何もかもが過ぎ去ったこのときがしあわせだ。何ひとつ持たぬもこと。何ひとつ背負わぬこと。何もおそれぬこと。
何も深く考えなくてよい、この時間。ここまで生きてきてよかった。最後にこの空が見られてよかったと。心から思う。
ああ。軽い。世界はなんと軽くて優美で、かくまで自分に優しいのだろう。
乾いた褐色の腕当てに包まれたあなたの両腕が。いま自然と、まるでその腕の中に世界のすべてを支えるように。二つの腕が、天に向かっておおきく高く広がってゆく。
さあ、踊ろう。戦おう。後悔はない。悲しみもない。あるのは深い充足だけだ。子供の頃に抱いた夢は、もうここでは忘れてしまった。あなたはそれでも、大好きな季節の底にいま生きている。あなたはここで生きている。あなたは世界と生きている。だからそれでいい。充分だ。もうそれだけで充分だ。
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