Dance in the Light (ダンス・イン・ザ・ライト)

6/16

4人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
5.  けれども。  あなたは今ここで、他の誰にも聞こえない、小さな小さな息を吐きだした。  長年、砂の浸食を受けて徐々に朽ちゆく、谷の地下深くにひそかに眠れる、古代の書庫の大広間にひとり立つあなた。  古代の英知を引き継ぐこと。少しでもそれを取り戻すこと。 あなたが長年、ひそかに心の奥でひとりで見続けてきたあなたの夢だ。かつての時代の、実り豊かな緑あふれる豊穣に輝く大渓谷を取り戻すことが、あなたの心の夢だった。  けれども。  申し訳ありません、父上。  自分には、どうやら、あまりに、力が足りません。  反帝国を声高に叫ぶ、軍事を知らぬ民たちを。なだめることができません。  父上と、その上につづくかつての大王のかたがたが長きにわたって守ってきた、この谷の平和。それを、どうやら、もうこれ以上。守っていくことが、もう、まもなく、自分はできなくなるでしょう。  熱夏の砂漠を踏み越えて、まもなく、数万以上の帝国兵がやってきます。  彼らは、谷のすべてを破壊してしまうでしょう。  彼らは、父上や、その先代たちがずっと積み上げて護ってきたこの谷の中の小さな輝くものたちを、すべて壊してしまうでしょう。彼らはこの谷の地下に今なお豊富に眠る銀鉱石以外に、おそらく何も見ないでしょう。彼らは我らを殺すでしょう。多くの子たちが死ぬでしょう。  父上――  熱夏のこの日の最初の光が、ひどく遠い天窓をとおして、眠れる古代の大書庫にしずかにしのび降りてくる。その白の光にひたされて、あなたは無駄のない動作で、イシュターと呼ばれる一本の曲剣を抜き放つ。そのイシュターは、装飾を凝らした家伝の宝刀よりも何よりも、あなたが心から信頼を置く、谷の伝統鍛冶師による実直なる手作りだ。作りは単純だが、あなたの体の本来の動きを、何より正確に刃先まで伝えてくれる。そして折れない。あなたを守る戦場の友だ。三年前、帝国傘下でやむなく参戦した、山岳自由民ウガル族討伐の小戦役でも、山地の最前線であなたの命を確かに守ってくれた愛剣だ。  地下に降りこむ朝日のただ中で、その刃は無垢なる白さであなたの瞳に光を伝えた。 ――おそらく、我らは、勝てないでしょう。  おそらくあなたは、勝てないだろう。  しかし。  しかし、だ。  あなたはそれでも、立ちむかわねばならない敵がある。  守らなければならないものがある。あなたが守りたいものがある。  この、古代の英知を今でもとどめたこの朽ち行く地下書庫の静寂を。  イル麦がたわわに実った砂地の畑で子供たちが歌う、愛すべき砂谷の収穫歌を。  そしてあなたが愛してやまない、この砂谷のすべての輝くものたちを。  あなたはそれでも、まもりたい。あなたはそれでも手放したくない。  一万と、六万。  兵力の差は歴然。  しかし。  士気の差は、どうだろう。  戦略の差は、どうだろう。  双方の勇士の剣技の差は、どうだろう。  心の強さの差は、どうだろう。  どうだろうか。それは、あなたも今はわからない。  しかし。  それでも。  あなたは、明日にも、民たちの先頭に立つ。  打倒帝国軍を声高に叫ぶ、無垢なる、しかし無知なる谷の民たちの先頭に立ち。  あなたは、王たるものの役割を。そこで果たしていかねばならない。  …父上。  あなたは深く目を閉ざし、垂直にもった曲剣の柄をぴたりと自分の胸につけ。  あなたは祈る。あなたを支えるすべての何かに無心に祈る。  どうか。強く、あれますように。  どうか、勇気を持てますように。  どうか、すべての力と幸運が、われらに味方しますように。  どうか。われらを、おまもりください。  どうか。父上。われらを。強く、強く、導いてください。  そして、どうか、守らせてください。  愛するこの美しき素朴なる谷の、すべての小さなものたちを。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加