Dance in the Light (ダンス・イン・ザ・ライト)

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6.  その午後。メディジェの枯れ河方面に放った斥候からの報告が入る。 敵兵力は、当初の報告の6万を数千以上うわまわり、おそらく7万に達するとのこと。敵の兵数が増えたことそのものよりも、あなたの心を重くしたのは、後続の斥候隊から続けてもたらされた新たな報告だ。  敵軍の隊列の最後尾に、どうやら多数の囚人兵が混在している、と。  囚人兵と聞いて、あなたの心に暗い雲が湧き起こる。好ましくない情報だ。  つまり。それらは、剣闘奴隷――  非情無双の無頼な剣技で各地の戦場の兵たちを恐怖の底に陥れてきたという―― 獣同様、人の心をいっさい持たぬという、この大陸随一の剣闘士集団「ゾマ」。  おそらく、それが、迫りくる帝国軍の一角を成しているらしい。その数はおそらく数百以下とのことだが。だが。そのひとりひとりが、並の重装兵百人に相当する無双の力を持つと。もっぱら噂されている。  そしてまた。その囚人軍団の中に―― これはあくまで、不確実な、出どころ不明の噂の範疇ではあるのだが―― 「処刑機」の二つ名を持つ女剣奴、アーグバルも含まれるようだ、と。さきほどあなたは報告を受けた。  処刑機アーグバル。帝国帝都の剣闘武会を、目下、二十一連覇中という、脅威の力を持った帝国最強の闘士だ。その女ひとりが戦場に放たれただけで、数万規模の敵軍が恐怖のあまり総崩れになる。その迅速な刃には雷神すらも背を向け逃げ出す、との噂。むろん、そのような噂にはいくつもの尾ひれがついていることはあなたも承知だ。  だがしかし。  処刑機アーグバル。よりによって、そのような鬼神のような猛戦士が来ているとなると。ただでさえ湿りがちなあなたの心の戦士の士気が、またさらにひとつ、深くくもって鉛の重さであなたの心をしめつける。  砂塵の浸食に滅びゆく古代地下書庫の最奥部、古代の賢人たちがおそらく読書に使ったであろう、繊細な彫刻のほどこされた青石の台座のひとつにあなたは座り、深く背中を石の背もたれにあずけ、古代の賢帝・サマリウスによる随想集の初版を手の中にかかげ読む。ひどく優美な古代文字が心に語る、独特の深みのあるかつての賢帝の言葉にしずかに耳を澄ませるあなた。しかし、その、研ぎ澄まされた帝の言葉のあいまあいまに、その、「処刑機」と呼ばれる奴隷剣士のまだ見ぬ黒い後ろ姿が何度もよぎって離れない。振り払おうとしても、消えてはくれない。  あなたは、あるいは、恐怖しているのか。  いや。そうではない。「懸念している」のだ。自分ははたして、勝てるのだろうか。  我らははたして、その恐るべき獣の心をもった剣闘士集団とまともにぶつかって。はたして、生きていられるだろうか。希望はあまり、ないようだ。  いや。しかし。  王たるあなたが、そのような弱気で良いはずがない。  あなたは、古代の英知の重みをたたえる小さな本を膝の上でしずかに閉じて、遠くきこえる砂風の音に耳をはせる。じっと聴いていると、その風音の奥底に、じりじりと不断の歩みでこの砂谷を侵しにやってくる帝国重装兵たちの無数の足音がたしかに混じっているようだ。  ......いや、それはさすがに気の迷いだ。まだ、彼らとの距離は六百ルグ以上もへだたっている。彼らが真の脅威となって目に見える距離に現れるまでには、少なくとも、まだ数日の猶予はある。  だが。この静けさに満ちた地底の大書庫で読書の贅沢がわずかであってもあなたに許されるのは、たぶんこれが最後となろう。今夜以降は、おそらくもう、完全なる戦時体制にすべての注意と時間をとられてしまう。ひそかにひとり、アデルデの谷が午睡にまどろむこのひとときに、この地下の古代の静けさの中に、あなたが降りてくることもできなくなるだろう。
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