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よその学校のことについてはよく知らないが、多分他の学校ではあまり見られないであろう行事が僕の通う学校にはある。春の終わりごろから初夏にかけて、クラス全員の連帯を何らかの形で示さなければいけないという、面倒なイベント、クラス発表会だ。
運動会や遠足だけで十分だと生徒や保護者の大半が億劫に思っているこのイベントだが、中々本格的に廃止という話は出てこない。どうも僕が通い始めるよりずっと前に学校でひどいいじめがあったようで、クラスの人間関係を円滑なものにしようと当時の児童会と、教職員が思いついたのが最初だそうだ。
演劇や合唱、リコーダー演奏を体育館で披露したりするクラスもあるし、グラウンドで組体操やダンスを行うクラスもある。とにかくクラス全員が協力していれば何でもよいという考えなので、生徒側も適当に済ますことが多い。運動場にクラスの人間全員が集まって、巨大な人文字を作るだけでお茶を濁したこともあった。流石に手を抜きすぎているということで、翌年から禁止されてしまったが。
そのイベントを経験するのももう5回目となり、クラスを構成している人間の半分以上は、親しくはなくとも顔見知りではあるので、新鮮味も何もあったものではない。自然と大きい欠伸が出てくる。放課後だというのにクラスの大半のメンバーが残っていた。あちこちでグループができ、無秩序に話し合っている。1つのグループが話すと、少しうるさくなる。別のグループの話し合いがそのうるささで少し邪魔される。するとそのグループはうるささに負けないよう、自分たちの声のボリュームを悪意なく上げてしまう。その結果として今の教室は、動物園よりもうるさくなってしまっていた。
グラウンドに出る前にトイレに行っていた人たちが、のんびりした様子で次々と帰ってくるのを見ながら、今度はため息を吐く。数日前の学級会で出し物が大縄跳びに決まってしまった時点で、今年のクラス発表会は外れもいいところだった。なぜ、そんなものを皆が選んでしまったのか、不思議でしょうがない。最初の1回目とかで引っかかる人が出てきたら、クラスの絆なんて一瞬で崩壊しかねないのに。
学校が終わってから塾に行かなきゃいけない人達もいるが、塾が休みの日は練習への参加を半ば強制されている。その強制性からくる不満を、この教室内の気だるい空気はよく表していた。
「じゃあ、そろそろグラウンド行こうか」
委員長、浅羽が全員に聞こえるように呼び掛けると、皆が動き始める。僕ものろのろと立ち上がる。そもそも大縄跳びのアイディアを出したのが浅羽なので、指示を出されるとそれだけで鬱陶しく思える。
「あれ? 高坂は?」
5年生になって初めて同じクラスになった、まだ名前も覚えていない男子がぽつりと言った。
「知らね。塾じゃね?」
「いや、あいつと一緒の塾だけど、今日は休みのはず」
「誰か連絡先知ってる人いる? あ、そう言えばあいつスマホ持ってないわ」
「一緒の塾だからって、授業時間も一緒とは限らんだろ」
「あいつ、この前、特進コースから普通コースに落ちて俺と同じになってるんだよ。だから日程は同じのはずだ」
何人かが、少しの間話し合う。誰か高坂から連絡を受けていないか、と浅羽が呼びかけるも誰も何も言わなかった。さぼったんじゃないのか。僕は反射的にそう言いたくなる。
「練習日程も少ないのにね」
3年生の時に同じクラスになったはずだが、もう名前を忘れてしまった、今は肩ぐらいまで髪を伸ばしている女子が愚痴を言う。言葉の底に怒りが宿っているのが分かった。昔から僕は人のあからさまな敵意を見ると体がすくんでしまうのだが、やりたくもない練習を強要されている人間が、同じ練習をさぼっている人間について考えているのだと思うと当然のものだ。
「仕方ない。今日は残っている皆でやろう」
浅羽がまた指示を出し、今度こそ僕たちはグラウンドに移動する。いち早く外に出ていた1人が縄を倉庫から取り出していて、僕たちはすぐに跳び始める。1回、2回、3回。中々10回を超えることができない。
せめて15回は跳びたい、というのが浅羽の目標だったが、これでは難しそうだ。幸い今のところ、僕起因で躓いたことはないので、悠長にそんなことを思う。クラスの大半の人間は僕と同じ心境らしく、失敗してもう1回最初から跳躍し直すときにちょこちょことお喋りを挟み始めた。
だが運動が得意な人間、浅羽を筆頭としたグループは逆に少し焦った表情になり始める。はい、次、行くよ、と失敗するたびに間髪入れず呼びかけるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
30分強の練習を終えた時、体力のない人たちは僕も含めてもうへとへとだった。じわじわと跳躍回数は増えていったが、それでも9回が最高記録だ。額の汗を手で拭いながら、浅羽の顔を少しだけ見てみると、案の定固い表情をしていた。高坂や、用事があって今日の練習に参加していない人も数名がいるこの状態でこの回数は、彼にとっては確かにまずいのだろう。
僕はふらふらになりながら、教室にランドセルを取りに行く。階段を上がる時、ふくらはぎのあたりが痛んだ。教室に入ると既に数名が椅子に座って休んでいて、足をさすっている人達もいる。さすりながら今日の練習のことを話し始めていたようで、自然と会話が耳に入ってきた。
少し細目の男子が言う。
「この調子じゃ無理だよな」
3年生の時に同じクラスになって、かろうじて何とか名字だけは覚えている三枝君がその言葉に答える。
「とにかくやり方を変える必要はある。縄を回す人間を変えてみるか? 俺にはちょうどいい速さで回ってるけど、もう少し遅くできるなら」
5年生の時に初めて同じクラスになったが、最初の席順が出席番号順だったため覚えやすかった衛藤君も口を開く。
「それを決めるには、全員が一度練習に参加する必要がある。速いと思う人がたくさんいるなら、遅くしてもいいけど、多分俺の勘だと縄回す速度は今のままでいい。あんまり遅くすると、かえってタイミングがつかめなくなって難しい」
よくそこまで真剣に大縄跳びのことを考えられるものだ、と内心舌を巻く。彼らを見ていると、適当な理由で作られたイベントなんだから、適当にこなせばいいと考えている自分に対して、大きなバッテンが付けられている気がしてきた。
「大沢、お前はどう思う?」
衛藤君に急に声をかけられて、危うく跳び上がりそうになる。流石に本当に跳び上がりはしなかったが、僕の挙動がおかしくなったことは見透かされていて、衛藤君は少しだけ申し訳なさそうな表情になった。
「そんなびっくりすんなよ。軽く意見くれるだけでいいからさ」
「…ごめん、分からない。でもまあ、とにかく、一度全員集まっての練習が必須だとは思う」
当たり障りのない意見で誤魔化すと、そうだよな、その通りだな、と衛藤君は頷く。
「だとすると問題は高坂だよなぁ」
三枝君がぼやく。
「中受で忙しいのは分かるけど…今後も来ないつもりなのかな?」
「俺、さっき聞いたんだけど、あいつの母親、超厳しいらしい。普通コースに落ちたって話しあったろ? あれ、その後、母親が塾に怒鳴り込んできたんだって。受験まで2年を切っているのにそんなことはしないでくれって。それ考えると、お受験に忙しくなっているのかもしれないと思うんだよ。大縄跳びなんてやる余裕がないのかも」
「やめろよ。そんな話。まだ1回目の練習だし、完全に陰口だぞ」
3人はワイワイとその後も話し合う。いつの間にか話題は自分たちの通う塾のことに移ったり、その後すぐにスマホを買ってくれない親の話題に移ったりする。僕はしばらく休みながら、高坂の席の方をぼんやり見ていた。正直、あまり好きな奴ではない。たくさん勉強しているから自分は頭がいいと誇っているのが見え見えのやつで、一度屈辱を味わわされたこともある。陰口を叩かれているのを見て、少しすっとした気分になったぐらいだ。
4年生の頃、僕が分数の引き算のことをどうしても理解できず、小テストでひどい点を取ったことがある。
その時は、あまりの出来の悪さに先生から怒られるというよりも心配されてしまい、放課後に勉強を見てもらうことになった。終わったら職員室に持ってくるように、と課題のプリントを1枚渡され、面倒くさいと思いながらも教室でちまちま解いていた。
忘れもしない、あれは僕が5問目の帯分数の問題を解いていた時のことだ。
忘れ物でも取りに来たのか、高坂が教室の後ろのドアから入ってきた。最初に、何でまだいるの、と聞かれた。僕は包み隠さず分数のプリントをやれって言われている、と答える。正直僕はクラスの中でも大分バカ寄りの人間で、それは自他ともに認めるところではあったので、追加の課題を出されていること自体は隠し立てしようとは思わなかった。
高坂が少しの間机を漁った後、しわくちゃになったプリントを取り出すのを目の端で見ながら、僕は相変わらずうんうんとうなり続けていた。分数の左側にある数字を使って仮分数にする作業も、何となく慣れてきたと思う。2に分母の5をかけた後、分子の3を足し合わせる。
「そこ、間違ってる。答えは7分の6」
いきなり後ろから声をかけられたので、僕は非常に驚いて、あらぬところに鉛筆で線を描いてしまう。振り向くといつの間にか高坂が僕の後ろに立っていた。僕の課題のプリントに興味を抱いたらしい。
驚き終わった後、今度は怒りに近い感情が自分の中に湧いてくるのに気づいた。高坂は僕を見下していた。位置的なことで言えば、ただ単に僕が座って、高坂が立っているのだからその形になるのは当然のことだが、その高低差が僕と高坂の間にある絶対の差を表しているような気がした。普段なら心の中でバカにしている、彼の腹回りの無駄な贅肉さえも、高坂の迫力を増すための小道具のように思えてくる。
高坂の表情から、こいつはバカだと見下している雰囲気を感じ取ったのも辛かった。僕の被害妄想だったのかもしれないとこの日からしばらくは考えようとしたが、明らかにそうではない。その証拠に高坂はこの頃からクラスの中で孤立していた。塾に通って人より少し優れた成績をとっているからと自分を見下してくる奴を、友達にしたいと思う人なんて、いない。
クラスの1割ほどの人間が中受のために塾に通って、高坂の成績が時間をかければ誰でも達成できる、大したものではないとバレたのは小学4年生の終わりころからだろうか。そうなってからでも高坂の態度は変わらなかったのだから、始末に負えない。
高坂は僕の視線に含まれていた微かな怒りに気付いたのか、はたまた塾にでも急いでいたのか分からないが、それ以外のことは何も言わず、教室を出ていった。考え方のヒントはおろか、どの問題を示しているのかも分からないままに、だ。結局僕は自分がどの問題をミスったのか、再度検算しなおし、1分ぐらいかけてようやっと見つけることができた。
ああ、まったく嫌なことを思い出したな、と僕は目を閉じ、瞼を軽く擦る。いつしか教室の中には僕と、女子のグループが1ついるだけとなっていた。記憶のなかで揺蕩っていたら、結構な時間が過ぎてしまっている。足の調子を確認してみた。まだ全く疲労は取れていないが、それでも何とか家まではもつはずだ。僕はよいしょと心の中で呟きながら、椅子から立ち上がり、逃げるように教室を後にする。
「おい、何で昨日、来なかったんだ?」
2時間目と3時間目の間にある、やや長い休憩時間に浅羽の声がした。目を向けると話しかけている相手はやはり高坂だった。
「皆、練習してたんだぞ。何してたんだよ?」
浅羽の言い方には棘があった。太っちょの高坂はその言い方にかなり怯えていて、瞼はひくつき、体を一瞬震わせてさえしていた。
クラス内の皆の反応は様々だった。浅羽以上に怒っていそうな人間もいたし、女子はひそひそと話し合っている。普段から愛想の悪い高坂は女子からもかなり嫌われていた。対して浅羽に話しかける時の女子の声の調子はいつだってちょっと高くなる。
中にはこれから始まるかもしれない残酷な見世物に眉をひそめる人もいたけど、そんな人たちは少数派だった。
「黙っていても何にもならねぇぞ」
怯えている高坂に対して浅羽は乱暴な口調で言い放つ。高坂はまたぶるっと体を震わせた。でも今度は辛うじて口を開く。
「ごめん」
それだけ言ってまた黙る。それを聞いた時の浅羽の表情は、何とも言えないものだった。謝罪の言葉しか口にしない高坂に怒っているようにも見えたし、自分に対して怯えてばかりいる存在に対して優越感を抱いているようにも見えた。
浅羽はすぐに高坂の謝罪をぶった切る。
「謝るぐらいなら最初から来いよ。いいか。今日の練習は絶対来い。今日お前に塾無いの知ってんだぞ」
浅羽は冷たく言い放つ。高坂はそれを聞いても何も答えなかった。もう怯えるのにも疲れたのか、何だかぼんやりした顔をしている。視線も虚ろになっていて、なおさら不気味に見えた。皆、少しの間高坂の方を見ていたが、すぐに視線を外し、各々のおしゃべりに戻っていく。
高坂の様子がおかしかったので、放課後までの時間、僕は彼の様子を何度か観察した。でも給食の時間、図工の時間、算数の時間、いつ見てもぼんやりしていて、心ここにあらず、という体だった。
昼休み、三枝君も様子がおかしいことに気づいていたようで、一度声をかけた。でも、何を言っても高坂は興味のなさそうな生返事をして、5分もしないうちに三枝君は折れてしまう。まるで閉じきった貝のようだった。
放課後になるとすぐに浅羽は高坂の席の方に行って、さ、行こう、と彼を連行していく。いじめ。強制的に連れていかれる彼を見て、その言葉が自然と頭をよぎる。でも、これはいじめとは言えない。大体僕たちは話し合いの末に大縄跳びをすると決めていた。そして出し物を決める時の学級会で高坂は意見すら出していない。だとしたら現行の方針に対して、彼は既に沈黙の同意をしているとも言えた。
クラスの大半の人間もそう考えているようで、高坂に対する同情のようなものはあまり見て取れなかった。俺たちも行こうぜ、と1人が言い、僕たちはグラウンドへと移動していく。あまりに面倒くさかったので、教室を出る時、僕は唐突にこのまま帰ってみたくなった。急に高坂の気持ちが痛いほど分かるようになった気がした。何でこんな訳の分からない行事のために、面倒くさい練習を強要されなくてはいけないのだ、と激しい怒りを覚える。
だが、人の流れに合わせて動くうちに、教室は遠ざかっていく。机にかけたままのランドセルを置いて帰るわけにもいかない。
踵を返して取りに行くこともできる。でも、きっと何で戻るんだ、と詮索される。
適当な嘘をつけばいい、と頭の中では分かるけど、バレないレベルの不自然じゃない嘘を考えるのは、それはそれでしんどい。
結局僕は皆に合わせてグラウンドに移動していく。30分耐えればいいんだろ、という投げやりな気持ちと、本当はこんなことやりたくないというわだかまりを抱えながら。
グラウンドでは他に何クラスかが自分たちの見世物の練習を始めていた。ダンスが今年も一番多そうだな、と思いながら突っ立っていると浅羽が縄を持ってきて、練習が始まる。
しかし、ひどいものだった。
昨日少しずつ上がっていた成功回数はまるで夢幻だったのか、と言いたくなるぐらいに全く跳べない。5回跳べればいいぐらいの体たらくだ。しかも引っかかる人間はその都度バラバラで、対策を立てることすら難しい有様になってしまっている。
最初からやる気があまりない僕でさえ、もどかしい気持になってくる。誰かのうめき声がまた聞こえて、縄の回転が止まる。僕たちはまるで粘度の高い泥の中を無理やり進軍しようとしている軍隊のようだった。どれだけ脚に力を入れてもほとんど進めないまま、筋肉は疲労し、体力ばかり消耗していく。目に見える光景は当然いつまでたっても変わらず、それがさらに焦りを招く。
練習はたびたび中断された。回す役を変えたり、立つ順番を変えてみたり、課題点が何なのかの話し合いもした。話し合いについては運動の得意なメンバーだけでやることが多かったので、僕は蚊帳の外だった。
話し合いの間はあまりに暇だったので、グラウンドの端の方で行われているダンスの練習を見物した。短い練習時間にも関わらず、どこも動きがかなり洗練されていて、僕たちの無様としか形容しようがない大縄跳びと違って、見応えがある。
30分間だけだったはずの練習が少し延長されて、何回最初から跳び直したのか分からなくなってきた頃だった。
大縄跳びの回転がまたも止まった。引っかかってしまったのは比較的運動のできるはずの女子で、申し訳なさそうな顔を皆に向ける。口には出さないものの、全員が軽い苛立ちを抱いたのが肌感覚で分かった。
「今日の練習はこのぐらいにしようか? 時間もオーバーしてるし」
後ろの方で跳んでいた副委員長の滝野君が、ちょうど僕の前にいた浅羽に呼びかける。浅羽は振り返った。少し鬱陶しそうな顔をしている。
「もう少し練習しないか? 流石にこの調子だと本番までに間に合わないだろう」
その身勝手な要求に、流石に滝野君も我慢の限界が来たようで、次はかなり険のこもった言い方をした。
「いや、もう時間過ぎてるし。用事ある奴だっているだろ? せめてその人達だけでも帰してやれよ」
ちょうど前にいたからというのもあるが、僕は浅羽に対して恐怖を抱いた。明らかに怒っている。浅羽の体は女子を含めてもクラスで一番大きい、ということを改めて強く意識した。
6年生と殴り合いになった時、浅羽が勝利したこともある。純粋な生物としての強さにこいつは満ちていた。それがこいつの人気を支えていると初めて気づいた時、惨めさに似た感情を抱いたことも同時に思い出す。
浅羽は数秒の間考える素振りをしたのちに、口を開く。
「時間を過ぎているのは確かだけど、この状態だとクラス発表会には間に合わない。だから、忙しい人たちだけもう帰っていいことにしようか。他の人たちはもう少し練習するっていうことで」
合理的な意見だった。何人かがそれを聞いて、じゃあ俺はこの辺で、とか、私も、と言いながら、大縄跳びの列からちらほらといなくなっていく。滝野君も抜けた。僕は特に忙しくはないけど抜けたいと思った。
列から抜ける人がそれなりの数いて、僕がその中に加わってもそんなには目立たないと判断し、いざ抜けようとした時、浅羽の声がした。
「ちょっと待て、高坂。お前は残れよ」
足を動かせなくなったのは、僕が間近にいる浅羽の怒気にビビったからもあったが、それ以上に心の底にいつも泥のようにたまっている下世話さのせいだった。高坂がどんな目に遭うのか見てみたかったのだ。
列から離れ始めていた高坂だったが、その場で固まっていた。皆の視線も彼に突き刺さっていて、まるでそれらが高坂をその場に縫い付けているかのようだ。
「昨日休んで、今日は塾無いんだろ? もう少しやろうよ。今日も2回躓いていたし。練習が必要だよ」
別段2回の失敗回数は多くはなかった。確かにまだ一度も失敗していない人もいるにはいたが少数派で、僕だって今日1回はうまく跳べずに回転を止めてしまった。言い訳になるかもしれないが、前の浅羽が跳ぶたびに後ろに徐々に移動してきて、どんどん僕が動きづらくなってしまったのだ。
高坂はしばらく固まっている。どうしたんだよ、列に戻れよ、と浅羽がイライラした声を出す。
「ごめん。帰って勉強しないといけなくて…」
言葉の最後で高坂は口を何かの単語の形に動かした。聞き取れる声量ではないが、彼が何を言おうとしているのかは、口の形から予想がついた。ママ。
高坂は浅羽から目を逸らした。自分の服の裾を親指と人差し指でつまんで、神経質そうにいじっている。落ち着かないのだろう。浅羽が僕にぎりぎり聞こえるぐらいに舌打ちした。列から離れていたはずの何人かも気になっているのか、振り向いてこちらを見ている。
ぐずぐずしていると僕まで逃れられなくなりそうだ、と思い僕は出来るだけ初速を出す形で今度こそ列から離れる。浅羽の方を見る勇気はなかった。
「あー、分かった、分かった」
浅羽の声が背中にあたった。
「帰って勉強すれば? そんな頭も良くないのにね」
絶対に振り返るつもりはなかったのに、あまりの一言に思わず振り返ってしまう。浅羽は怒っているようには見えず、今はむしろやってしまったという顔をしていた。
発起人ゆえの責任感がさせた言動かもしれないが、許されざる一言であることは変わらない。事実を突いているものだから、なおさら始末に悪かった。列に居残っている人たちの中の、何人かは不安そうな顔をしている。
だが結果としては浅羽と高坂の人気の差が歴然と出た。浅羽は昨日と今日で少し追い詰められ始めていて、思い返してみると今日は最初から皆にかける言葉がほんのわずかだがきつかった。自分がしっかりしなくては、という気持ちが強すぎるあまり、つい攻撃的になってしまった。そんなところだろう。
僕が分かるぐらいなのだから皆、そんな簡単なことは分かっている。だから浅羽の方には大きな失点が発生しない。
それと比較すると高坂は、そもそも普段からクラス内での評価が低いのだ。1つの暴言でその評価の差が埋まるわけもない。
プライドを傷つけたであろう浅羽の暴言を前に、高坂の表情に怒りの色が浮かぶ。だが、それだけで特に何も言い返そうとはしなかった。昨日無断でさぼっている以上、言い返しても高確率で負けることぐらいは、流石に分かっているのだろう。
大体高坂は地頭がよくないから、口喧嘩も弱い。教室内で偶に軽い言い争いが起こる時があるが、高坂が効果的に相手の弱みや落ち度を指摘できていたことなんてない。口下手で、自分をよく見せる技術もなかった。
結局高坂はくるりと列に背を向けて、離れていく。僕も再び歩き出す。高坂の近くに滝野君が歩み寄っていった。滝野君は面倒見のいい人なので、ホッとする。でも少しだけ気になったので僕も高坂に追いついて、追い抜きざまに高坂の表情を見た。
予想に反して、高坂は笑っていた。だが、普通なら笑顔を見ると安心するはずなのに、その時の高坂の笑顔がやけに歪んだもののように思えて、背筋に冷たいものが走った。慌てて彼から目を離し、僕は唐突に感じた寒気から逃れるかのようにやや足を速める。
それが僕が高坂を見た最後だった。
高坂は来なくなった。
練習だけじゃない。そもそも学校にすら来なくなってしまった。
クラスの何人か、慈愛に満ち溢れた人たちが高坂の様子を家まで見に行ったことがあるようだが、面会は拒否されたらしい。
「え? お前ら高坂の家に行ったの?」
ある日の昼休み、三枝君の驚く声が教室の隅の方からした。
「うん、行ったんだけど、どうしても高坂の母親が開けてくれなくてな」
「は? 何で?」
「知るかよ。とにかく帰ってくれって、えらい剣幕で言われた。完全に俺たちのこと、敵だと思っているみたいだったわ。むかつく」
「あいつ、塾もやめてんだよな。何があったんだろ?」
「塾までやめてんの…」
「そうなんだよ。少なくとも名札はもうないから、やめてるとしか思えんだろ」
その後しばらく彼らは高坂のことについて話し合っていたが、昼休みの終了と同時にあっさりとその話し合いは終わった。皆バラバラと自分の席へと戻っていく。次の休み時間にはもう全く別の話題が持ち上がっていた。
元々やや嫌われていたし人付き合いも浅かったから、いなくなっても誰も困らないのだ。
僕だって会えなくなって辛いとは全く思わなかった。それからも、主に女子たちの中で心配だなんだと偶に話題に挙げられることはあったが、
「そんなに心配ならお前らも会いに行けばいいじゃん」
滝野君の固い調子の一言で、叩き潰された。結局、そう指摘された奴らの中に高坂の家に実際に向かった奴はいなさそうだった。自分たちがいかに「他人を心配するいい子」であるかを教室内で示すために、高坂をだしに使っているだけだった。
皮肉なことに大縄跳びの方は高坂がいなくなって以来、練習すればするだけ手ごたえを覚えるようになり、徐々に目標回数を跳べるようになっていった。
本番では高坂を除いた全員で跳んで、20回も跳ぶことができた。それが相場として多いのか少ないのか、スマホやタブレットで調べればすぐに分かったのだろうが、僕は調べなかった。ただ、跳躍が終わった時、教職員の多くがやや残念そうな表情をしていたので、それが答えだと思ってはいる。
浅羽は最初から最後まで発起人としての責任を果たすべく、練習を指揮したし、クラス発表会が終わってもクラスの輪の中心にい続けた。
高坂が来なくなってから、彼の立場も一時期危うくなったが、高坂自身が元から不人気なのと、浅羽の人気の貯金もあり、クラス内での立場が揺らぐまでには至らなかった。
あれしきのことで来なくなった高坂が悪い、と公言する奴すら一度出てきた。流石にそれは教室内の空気によって、一瞬で叩き潰されたが。
夏になっても、秋になっても、冬になっても高坂は教室に来ない。保健室で何かしらの課題をさせられているのかもしれないが、見に行く物好きはいなかった。
僕たちは何の痛みも感じないままに、高坂のことを徐々に忘れていく。遠足や運動会に高坂がいなくても何も困らない。困らない以上は特にいてほしい理由もなかった。
そんな考えをしている自分がいることに、時折じんわりと嫌悪感が湧くことはあった。ただ、ちょうどその頃から僕も親から塾に行くよう命じられてしまい、そんな嫌悪感に苦しむ時間的余裕がそもそも物理的に消えた。
「私立に行けるよう頑張りなさい。結局世の中は学歴で、力なんだから」
塾にだらだら向かう道すがら、父が酒を飲みながら言い放ったこの一言を頻繁に思い出して、そのたびに鬱々とした。
高坂のことは相変わらず嫌いなままだったが、それでも鬱っぽくなるたびに、彼の受けていたストレスの何割かは僕にも理解できるようになった気がした。頭を押さえつけられながら生きているかのような不快感。まな板の上の鯉になったかのような無力感。
5年生も終わりに近づいたある日の塾からの帰り道、真新しい猫の轢死体を見たことがあった。
その死骸を見ている時、最初、強く高坂を意識した。押しつぶされた猫の姿が、受験と学校のストレスに負けた彼の姿を自然と想起させたのだ。
猫の無残な姿を見ているうちに生まれた、哀れみに近い感情は、しかしあるタイミングで急に恐怖に変わった。
喉が締め付けられそうな、一瞬窒息死を想像してしまうぐらいの、鮮烈な恐怖で、僕はしばらくの間その場で胸を押さえる。何とか収まったが、家に帰る直前ぐらいまで、息はずっと荒いままだった。
何がそんなに怖かったのか、振り返ってみても正確なところは未だに分からないけど、その経験があってから、僕は偶に喉のあたりにつかえを覚えるようになった。特にきっかけもないのに突然、十分に息を吸いきれなくなる。
何かが噛み合わなくなり始めている。流石の僕でも、そんなことには気づいていた。ただ、分かっているからと言って、うまく対応出来るというわけではない。明らかにストレス起因での症状だったが、それを両親に打ち明けたところで、もう少しの間耐えろ、とだけしか言ってくれなかっただろう。
6年生に進級してからすぐ、高坂の名前がどのクラスの名簿にも載っていないことがほんの少し話題になったが、それも2,3の真偽不明な噂を生み出すだけで終わった。1人の人間が永遠に目の前から消える、というそこそこの事件ですら、バカな僕たちでは餓鬼のように雑に消化するだけなのだ。その証拠に、新年度の2週目に入ると高坂の不在はエンタメとしての価値すら完全に失った。
僕が第一志望の中学に落ち、県外の第二志望校に向かうことが、父のため息とともに決められてからの卒業式の日。残っていた私物をランドセルにぎゅうぎゅうと詰めていると、浅羽が快活に教室を後にする姿を目が自然と捉える。彼の周りには彼が受かった私立中学、僕が受け、そして落ちた第一志望校に行く人たちが集まっている。
浅羽の進学先は高坂の第一志望でもあったと塾で聞いたことがあり、そのことを不意に思い出す。今となっては何の価値もない情報のはずなのに、思い出した瞬間に喉のあたりにざらざらとした感触を覚え、またしても息がし辛くなる。
教室から出がけに喉のあたりを少し撫で、呼吸がわずかに乱れる中でも無理やり溜息を吐く。多分これはもう一生無くならない。数か月前から覚悟し始めた先行きの暗さに、再度意識が向いた。だが、僕のおつむの出来の悪さはその暗さを日々保証し続けているし、仕方のないことだ。
高坂と同様、僕も周囲で発生する色々な問題に、その都度小突き回されながら生きていくのだろう。そしていつか上手く立ち回れなくなり、落伍していくのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、角度的に廊下からも見えるトイレの鏡に自分が映っているのが目に入る。僕は、ひどくくたびれた、負け犬同然の顔をしていた。
自分の表情ながらあまりにも気持ち悪くて、無理やりにでも口角を上げて笑顔を取り繕ってみる。
そこにはあの日、浅羽に馬鹿にされた高坂と見紛うばかりの、僕がいた。
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