女神のような彼

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女神のような彼

いい加減、嘘だったと言わなければ。 いつまでも騙しとおせるはずがない。 嘘だと分かったら、きっと軽蔑するだろう。 もうこれきり、立記(りつき)さんには会えなくなるだろう。 それでも、 嘘だったと、今日、言おうと思う。 ── 三ヶ月前 新緑が鮮やかに街を彩る。 都会も少し空気が浄化されたように感じるこの季節、木々の初々しい若葉の香りが鼻の奥をくすぐる。 そんな昼下がり。 「いらっしゃいませ」 店の引戸が開いてお客様が入ってきた時に、僕は息をするのも忘れるほどに目を奪われた。 頭を少し屈めて入り口をくぐる長身と、端正な顔立ち、目が眩むほどのオーラに身動きひとつ取れなくなる。 若草色のジャケットを着ているから、通りの街路樹が入って来たのかと思った、と言ったら馬鹿ではないかと思われるだろうが、それほど僕には彼が衝撃的だった。 「あ…… 空いているお好きな席へどうぞ」 漸く出せた声は、少し震えていたかもしれない。 創業七十年になる老舗の甘味処『()(がみ)()』でアルバイトをしている僕。 二代目になる店の主人に言わせると、七十年じゃまだまだ老舗とは言えない、なんて言うけれど。 「ここいい? 」 窓が通りに面した、ボックス席。 明るいテーブルを指さして訊いた目が妖艶で、僕はすっかりやられてしまい、 「ど、どうぞ…… 」 紅潮して答える声が小さくなった。 こんなに素敵な人が甘味処に来るなんて、彼も甘い物が好きなのかな? 途端に嬉しくなる。 乃上家でアルバイトを始めたきっかけだって、甘いものが大好物の僕が高校生の頃から通っていた店で、社員割引なんかを期待してだったから。 大きなバッグを自分の座る隣りに置き、メニューを手に取った彼。 お茶とおしぼりを持って行き、緊張しながらテーブルにおくと、 「おすすめは何かな? 」 眩しい彼に訊かれる。 「今は『新緑』がおすすめです。八女茶のブラウニーと寒天の上に、八女茶のアイスとバニラアイス、当店自慢の特製餡と白玉をのせたパフェで、私も大好きです」 これは本当に美味しいんだ、自信を持って勧められる、僕は毎日だって食べられる。 「そうか、じゃあそれにしようかな」 メニューから目を離し、僕を見つめて微笑む顔が格好良すぎて素敵すぎて、固まってしまう。 「あれ? 聞いてた? 」 固まったままの僕に、彼がきょとんとした顔で覗き込む。 「も、申し訳ありませんっ!か、かしこまりました、お待ちください」 はっとして慌てて彼にそう言い、お辞儀をしてテーブルを離れバックヤードへと急いだ。 ドキドキとした。 あんなにかっこいい人が世の中にいるんだと思い胸が早鐘を打つ。 たまらずに胸を押さえた。 「大丈夫ですか? 早馬(そうま)さん」   不思議に思ったのだろう、高校生のアルバイトの子に訊かれて「あ、ああ、大丈夫だよ」と答えるのが精一杯。 「熱があるんじゃないですか? 顔が赤いですよ」 「だ、大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」 僕の顔を覗き込み、今度は心配気に訊いてくる。 まさかあの男性に目を、さらには心も奪われてしまいそうなんだ、などと言えやしない。 湯呑みやおしぼりなんかを整理しつつ、店内とバックヤードを間仕切る格子の隙間から彼を盗み見た。 『新緑』のパフェは違うバイトの子に持っていってもらう。緊張して倒してしまったら大変だから。 少ししてバイトの女の子が、バタバタと僕のそばへ小走りで来た。 「早馬さん、あちらのお客様が呼んでらっしゃいます」 言われた方を見ると、あの彼。 えっ!? 呼んでる? なんでかな? 何か粗相をしてしまったかな。 とりあえずは急がなくては。 ああ、緊張してしまう。 「失礼いたします。何かご用でしょうか? 」 恐る恐る彼のそばに。 「私、こういう者なんですが…… 」 名刺を出されて手に取ると、 『writer・photographer Matsuoka Ritsuki 松岡 立記』 とあった。 松岡(まつおか)立記(りつき)さん。 心の中で復唱してしまう。 ちらっと彼、松岡立記さんを見るとにこりと笑う顔がそれはもう、男の人なのに女神のようで、僕はただただ見惚れてしまっていた。
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