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そして、また…
名刺を手に松岡さんを見るとにこりとされ、その顔がまた美しくてカッコよくて、思わずゴクリと唾を呑んでしまった。
「こちらのお店を取材したいのですが」
僕の目の前で立ち上がると軽く頭を下げた。
ズンッと大きな彼、尖った喉仏が目の前に。
黒目だけが上を向いた。
「しょ、少々お待ちください」
店のご主人に確認しなければと思い、名刺を持って少し急ぎ足で厨房へ。
餡を練る手を止め、名刺を受け取った今年還暦を迎えるご主人が「んー」と少し眉間にしわを寄せた。
湯気の立っている餡はこし餡、ここでも思わず生唾をゴクリと呑んでしまう。
「どうしますか? 」
「早馬くんはどう思う? 」
「え? 僕ですか? 」
「うん、若い人の意見も参考にしないと、これからの経営はなかなか難しいからさ」
軽く笑うと名刺を僕に返して、また餡を練り始めた。
「あ、えっと…… いいと思いますが…… 」
正直、松岡さんに断りの返事をしたくなかったのが本音。取材を了承すれば喜んでもらえると思った。
「じゃあ、お受けして」
ご主人から承諾を得て、胸が弾んでいることに気付く。
「いい、そうです」
「そうですかっ、ありがとうございますっ」
嬉しそうな顔に、とくんとなる。
「では『新緑』をもうひとつ、お願いします」
「もうひとつ? 大丈夫ですか? 」
二つも食べられるのかと思って驚いて訊いた。
「ええ、今度は写真を撮らせていただいていいですか? 」
「はい、もちろんです」
『新緑』のパフェを取り扱ってくれるらしい。僕が勧めたものだ、嬉しかった。
カシャカシャとテーブルにあるパフェを右から左から、上から横からと何枚も撮っている。カメラを持つ姿に見惚れてしまって、ぽーっとした。
ひと通り撮り終わったのか、ふぅ、と軽く息を吐くと僕に振り向き訊いた。
「三代目、ですか? 」
松岡さんは僕をこの乃上家の三代目と勘違いをしているようだった。
違います、そう答えようとした時、
「岬希さんっ!」
同じ時期に入ったバイトの子が、少し慌てた様子で僕のシャツを引っ張る。
僕がバイトに入った当時、漢字は違っても読みは同じ相馬さんという人がいて、当時はどちらか分かるように名前で呼ばれていたので、長いバイト仲間は僕を岬希さんと呼ぶ。
「ん? 」
「あの…… 」
チラッと松岡さんに目をやり、小さな声で「裏に…… 」とバックヤードを見る。
その視線に合わせて見ると、何やら揉めている様子が窺えた。
「すみません、ちょっと外していいですか? 」
怪しいことはしないから、確認していて欲しいと言われて松岡さんが写真を撮っている間そばにいた。
「もちろん」
にっこりと笑顔で頷く、何をしてもさまになる松岡さん。
ずっと見ていたいけれど、裏へと急がなくては。
注文の品を落としてしまい、厨房へ再度お願いをしたが叱責をされたようで泣いているバイトの子。
僕もただのアルバイトなのだけれど、大学一年生から始めて今年で四年目、すっかりベテランになってしまったようで何かと頼られる。
嬉しいような困るような。
「すみません、もう一度作ってください」
僕がお願いをすると、厨房の職人さんは舌打ちをしながらも手を進めてくれた。
店のご主人が(ありがとうね)という顔で、僕に下げた眉を見せてくれる。
「あんまり気にしないで、これから気をつけよう」
バイトの子の肩に手をやり、宥めてまた松岡さんの元へ戻った。
「失礼しました」
「いえ、さすが三代目」
違います、この時にそう言えればよかったのだけれど、眩しい松岡さんの笑顔に言葉を飲んでしまった。
ここへ取材に来るにあたり、下調べはしてきていたのだろうか。
店主の息子さんは僕と同じ歳だったから、間違えたのかもしれない。
でも、息子さんはこの店を継ぐ気持ちは今のところないようなことは、僕が言うことじゃない。
二個目のパフェを、かなり苦し気に食べている松岡さんに、
「あの、無理しないでください」
そう言うと、
「無理なんかしてないよ、食べ物を残すなんでバチが当たるよっ、それに美味しい!」
また爽やかな笑顔を向ける。
なんて良い人なんだ。
僕を三代目と間違えている松岡さん。
お店の、パフェの紹介に、僕の顔が出るわけじゃない。
まぁいいかと、そう思った。
新緑の季節を過ぎて、季節は梅雨を迎えていた。
じめじめと降り続く雨と湿気にうんざりする。
「いらっしゃいませ」
それでも来てくださるお客様には笑顔だけでも爽やかにしたいと、満面の笑みで振り向いた。
…… 松岡さん。
また、来てくださった。
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