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そんなお願い
「松岡、さま…… いらっしゃいませ」
もらった名刺をどれだけ見ていただろう。
「え? 覚えていてくれたの? 」
松岡さんの名前を、顔を、姿を忘れるはずがない。
目を丸くして僕を見つめる。
その顔は驚きながらも、嬉しそうに見えたのは思い過ごしか。
「もちろんですっ」
ちょっと声が大きかったかな。
ぽっと頬が熱くなるのを感じた。
「ここ、いい? 」
以前と同じ場所を指差して、目が眩むほどの笑顔で訊く松岡さん。
「もちろんですっ」
あ、また大きな声で言ってしまった。しかも同じ言葉。
またも頬がぽっとなる。
「おすすめは? 」
椅子に腰をかけると、メニューも見ずに僕に訊く。
よし来た、僕はアルバイトながらも、この乃上家ではそれなりのポジションにいる。
新作メニューのおすすめ文句は、自分なりに頭に入れている。
「紫陽花パフェです」
ちょっと得意気に言った。
だってこれは、僕が店のご主人に提案して商品化されたものなんだ。
「いいね、早馬くんセンスあるね」
ご主人にそんなことを言われて、少し舞い上がったりもした。
紫陽花をモチーフに、水色のソーダ味のシャーベットを紫、水色、淡いピンクのゼリーで挟み、さらに紫芋とバニラでマーブル模様に仕上げたアイスを一番上に。
是非とも松岡さんに食べて欲しかった。
「じめじめとした毎日なんか、吹き飛ばしてくれると思います」
あ、ちょっとオーバーだったかな、いや、そんなことはない、きっと。
ご主人だって褒めてくれたし。
「へぇ、じゃあ、それ貰おうかな」
眉を上げて悪戯っぽい顔が、僕の胸をまたとくんとさせる。
「は、はい、お待ちください」
ドキドキとして頭を下げた。
また会えた。
また、お店に来てくれた。
浮かれ過ぎている自分に気付く。
どうしよう、この『紫陽花パフェ』僕が発案したものだって、言っていいかな?
でも、知ってほしい。
「紫陽花パフェになります。あ、あの、こちら、私が発案した、もの…… です」
ちらちらと松岡さんに目をやり、どうしても伝えたくて言ってしまう。
「そうっ!? へえっ!写真撮っていい? 」
「もっ、もちろんですっ!」
驚いてはいるけれど、感心している松岡さんの様子にさらに浮かれる。
ああ、どうしよう夢心地だ。
パシャパシャとシャッター音、まるで自分が撮られているみたいで気恥ずかしい気持ちにもなる。
「ご、ごゆっくりどうぞ」
はっと我に返り頭を下げ、松岡さんのテーブルを離れた。
バックヤードから様子を窺い、食べ終えた頃に新たなお茶を持って行く。
「美味しいし、梅雨の季節にこの爽やかなビジュアルがすごくいい。湿った空気を吹き飛ばすよ!」
フォトグラファーでもある松岡さんに太鼓判を押されて、しかも松岡さんに…… ぱちぱちと瞬きが止まらない。
「さすがだね」
そう言った松岡さんの顔は僕をこの、乃上家の三代目として見ているのだと分かり、ちくっと胸が痛んだ。
「あ、そうだこれ」
カメラが入っていたバックとは違うバックから、雑誌を取り出すとペラペラとページを捲り僕に向けた。
「見開き1ページしかないから、小さいけど」
そう言いながら指をさしたのは、乃上家の『新緑』パフェの写真。
他にもいくつかの店が掲載されている中、それでも一番上に載せてくれていて目立つ。嘘みたいな感覚とくすぐったい気持ちが入り交じる。
松岡さんの講評も載っていた。
── 八女茶の特長でもある、まろやかな味と爽やかな香り、うま味とコクがブラウニーと寒天、アイスにそのままいきて『乃上家』特製の餡をさらに引き立てる、絶品。
僕が言いたいことがそのまま書かれていて、胸がじーんとする。
季節限定だけれどもまだメニューにはあり、雑誌を見て、足を運んでくださるお客様もいるかもしれない、嬉しかった。
「よかったらこの雑誌、どうぞ」
スーッと、テーブルの端に雑誌を滑らせる松岡さん。
「ありがとうございます!でも書店でも買います!」
いただけるという雑誌を胸に抱き、弾んだ声でそう言った。
少し、高揚した顔をしていたかもしれない。
そんな僕に、
「でね、ひとつお願いがあるんだ」
人差し指を立てて鼻にあて、またも悪戯っぽい顔を僕に向ける松岡さん。
お願い?
僕は少し眉を曲げて松岡さんを見た。
「俺さ、『老舗の跡継ぎ』って特集を書きたいと思っててさ。取材、お願いできないかな? 」
屈託のない笑顔を向ける松岡さんだったけれど、そのお願いに僕の顔は瞬時に曇る。
そんなお願い聞けるはずがない。
僕は、乃上家の三代目でも跡継ぎでもない、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
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