そんなお願い

1/1

324人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

そんなお願い

「松岡、さま…… いらっしゃいませ」 もらった名刺をどれだけ見ていただろう。 「え? 覚えていてくれたの? 」 松岡さんの名前を、顔を、姿を忘れるはずがない。 目を丸くして僕を見つめる。 その顔は驚きながらも、嬉しそうに見えたのは思い過ごしか。 「もちろんですっ」 ちょっと声が大きかったかな。 ぽっと頬が熱くなるのを感じた。 「ここ、いい? 」 以前と同じ場所を指差して、目が眩むほどの笑顔で訊く松岡さん。 「もちろんですっ」 あ、また大きな声で言ってしまった。しかも同じ言葉。 またも頬がぽっとなる。 「おすすめは? 」 椅子に腰をかけると、メニューも見ずに僕に訊く。 よし来た、僕はアルバイトながらも、この乃上家ではそれなりのポジションにいる。 新作メニューのおすすめ文句は、自分なりに頭に入れている。 「紫陽花パフェです」 ちょっと得意気に言った。 だってこれは、僕が店のご主人に提案して商品化されたものなんだ。 「いいね、早馬くんセンスあるね」 ご主人にそんなことを言われて、少し舞い上がったりもした。 紫陽花をモチーフに、水色のソーダ味のシャーベットを紫、水色、淡いピンクのゼリーで挟み、さらに紫芋とバニラでマーブル模様に仕上げたアイスを一番上に。 是非とも松岡さんに食べて欲しかった。 「じめじめとした毎日なんか、吹き飛ばしてくれると思います」 あ、ちょっとオーバーだったかな、いや、そんなことはない、きっと。 ご主人だって褒めてくれたし。 「へぇ、じゃあ、それ貰おうかな」 眉を上げて悪戯っぽい顔が、僕の胸をまたとくんとさせる。 「は、はい、お待ちください」 ドキドキとして頭を下げた。 また会えた。 また、お店に来てくれた。 浮かれ過ぎている自分に気付く。 どうしよう、この『紫陽花パフェ』僕が発案したものだって、言っていいかな? でも、知ってほしい。 「紫陽花パフェになります。あ、あの、こちら、私が発案した、もの…… です」 ちらちらと松岡さんに目をやり、どうしても伝えたくて言ってしまう。 「そうっ!? へえっ!写真撮っていい? 」 「もっ、もちろんですっ!」 驚いてはいるけれど、感心している松岡さんの様子にさらに浮かれる。 ああ、どうしよう夢心地だ。 パシャパシャとシャッター音、まるで自分が撮られているみたいで気恥ずかしい気持ちにもなる。 「ご、ごゆっくりどうぞ」 はっと我に返り頭を下げ、松岡さんのテーブルを離れた。 バックヤードから様子を窺い、食べ終えた頃に新たなお茶を持って行く。 「美味しいし、梅雨の季節にこの爽やかなビジュアルがすごくいい。湿った空気を吹き飛ばすよ!」 フォトグラファーでもある松岡さんに太鼓判を押されて、しかも松岡さんに…… ぱちぱちと瞬きが止まらない。 「さすがだね」 そう言った松岡さんの顔は僕をこの、乃上家の三代目として見ているのだと分かり、ちくっと胸が痛んだ。 「あ、そうだこれ」 カメラが入っていたバックとは違うバックから、雑誌を取り出すとペラペラとページを捲り僕に向けた。 「見開き1ページしかないから、小さいけど」 そう言いながら指をさしたのは、乃上家の『新緑』パフェの写真。 他にもいくつかの店が掲載されている中、それでも一番上に載せてくれていて目立つ。嘘みたいな感覚とくすぐったい気持ちが入り交じる。 松岡さんの講評も載っていた。 ── 八女茶の特長でもある、まろやかな味と爽やかな香り、うま味とコクがブラウニーと寒天、アイスにそのままいきて『乃上家』特製の餡をさらに引き立てる、絶品。 僕が言いたいことがそのまま書かれていて、胸がじーんとする。 季節限定だけれどもまだメニューにはあり、雑誌を見て、足を運んでくださるお客様もいるかもしれない、嬉しかった。 「よかったらこの雑誌、どうぞ」 スーッと、テーブルの端に雑誌を滑らせる松岡さん。 「ありがとうございます!でも書店でも買います!」 いただけるという雑誌を胸に抱き、弾んだ声でそう言った。 少し、高揚した顔をしていたかもしれない。 そんな僕に、 「でね、ひとつお願いがあるんだ」 人差し指を立てて鼻にあて、またも悪戯っぽい顔を僕に向ける松岡さん。 お願い? 僕は少し眉を曲げて松岡さんを見た。 「俺さ、『老舗の跡継ぎ』って特集を書きたいと思っててさ。取材、お願いできないかな? 」 屈託のない笑顔を向ける松岡さんだったけれど、そのお願いに僕の顔は瞬時に曇る。 そんなお願い聞けるはずがない。 僕は、乃上家の三代目でも跡継ぎでもない、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

324人が本棚に入れています
本棚に追加