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頑張る僕の心臓
「も、も、もしもしっ」
心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張、どっくんどっくんと鼓動が激しく打つ。
片手ではとても持っていられない、両方の手でスマホを持ち、ぎゅっと耳に押しつけた。
「乃上家さん!? 」
思いのほか松岡さんの声が大きく、耳にキーンときて思わず耳からスマホを離した。
「は、はい…… 」
というか『乃上家さん』…… か。
だよね、だって僕の名前は教えてないもの。
松岡さんに僕の携帯番号を教えた時だって、『乃上家さん』って登録していたのを知っている。
「こないだのさ、取材の話だけど、近いうちに会えるかな? 」
近いうちに会えるかな?
近いうちに会えるかな?
近いうちに会えるかな?
松岡さんの問いが頭の中で繰り返される。
夢みたいだ。
会えるけれど、体が持ちそうにないくらいに緊張というか、興奮というか、自分の感情が分からないくらいにパニック状態。
神様にさえも抗う僕は、
「だっ!大丈夫ですっ!」
普通に、普通にしてと自分に言い聞かせて出た声は、かなり大きかった気がする。
「そ、そう? 」
ほら、松岡さんがちょっと引いてる感じがする、だめだ、落ち着け僕。
「は、ぃ…… 」
大きな声を出してしまった自分にしょんぼりして、今度は蚊の鳴くような声になる。
「じゃ、さ、取材っていうか、打ち合わせっていうか、とりあえずお近づきのしるしみたいな感じで会おうよ」
お近づきのしるしっ!?
思わず背筋がシャキンと伸び、目が飛びそうに大きく真ん丸く見開いた。
「へぃ」
「ん? 」
あ、緊張のあまり「へぃ」と返事をしてしまった。
「あ、はい」
言い直した。
「乃上家さんの最寄り駅の駅前ロータリーに面したところに、焼き鳥屋があるの分かる? 」
「吉鳥ですか? 」
「ん? キッチョウ? 」
「よしに鳥とある看板の」
「あ、あれ、きっちょうって読むんだ、俺、よしどりかと思ってた」
はっはっは、と笑いながらの松岡さん。
こんな会話をしている自分が信じられない、すごいニヤニヤとした顔になっているはず。それにわずかに緊張も解けてきた。
「じゃ、そこで…… っと、今夜とかって急すぎるよね? 」
こっ、今夜!?
本当だ急すぎる、心の準備が間に合わない。
でもお断りの返事なんてとんでもない。
途端にまた緊張状態に戻った。
「大丈夫です」
ああ、大丈夫だと言ってしまったよ。
いいんだけど、どうしよう、今夜だよ。
「よかった!じゃあ八時で大丈夫かな? 」
「…… 大丈夫です」
じゃあよろしくと、プツッと電話が切れた。
この電話の会話で僕は「大丈夫です」と何度言っただろうかと、気になったのはそんなこと。
はっ!しまったっ!
今夜も乃上家でバイトだったじゃないか、どれだけ心ここにあらずだったのかと自分で呆れる。
「早退? 」
「はい、すみません…… 急用ができてしまって…… 七時半で上がらせていただくわけにはいかないでしょうか…… 」
なんてことだ。
松岡さんを優先してしまう、どうにも仕方のないことだと思ってしまう僕。
もう二十五年も乃上家でパートをしている柴田さんに、早退したいと申し出た。
二十五年、僕が生まれる前からだ。すごい。
「今日はお店も落ち着いているし、いいわよ、片付けだって大したことなさそうだもの」
閉店は八時、そのあとの片付けで三十分から一時間程度、その日の混雑具合によって変わる。今日は三十分もあれば終わりそうだった。
「岬希くんがそんなことを言うのは滅多にないもの、よっぽどのことでしょう? 」
はい、よっぽどのことです。
と胸の内に秘めて、
「すみません、開店中にできる限りの片付けはしていきますので」
深く頭を下げた。
「真面目ねー、それにイケメンだし。ああ、うちのバカ息子と取っかえたいわー」
そんなことを言われて、もう一度頭を下げた。
大学が終わってから、一度着替えに家に戻った。
なにを着ていけばいいのか迷いに迷って、結局白のTシャツからカーキ色のTシャツに着替えただけ。
汗も掻いてしまったし、ちょっと臭っているかもしれない、シャワーを浴びたいところだけれどそれほどの時間はない、汗拭きシートで体中をきれいに拭いた。
何度も何度も時計を見た。
「デート? 」
柴田さんに言われて焦る。
「ちっ、違いますっ!すみません、ソワソワしていて」
「ソワソワしてるんだ、やっぱりデートね」
「違いますよっ」
早退させてもらうのに、最後はそんな言い草。
ばちが当たるよ僕。
それに、デートと言えたらどれだけいいだろうかと内心思う。
焼き鳥屋『吉鳥』の引き戸を開けた途端、たくさんのご機嫌な声が溢れでて、一瞬首をすくめた。
「乃上家さんっ!」
その中で聞こえたのは紛れもなく松岡さんの声、視線を向けると大きな松岡さんが上げた長い手は天井に届きそうだと思った。
どくんと、大きく打つ胸。
今日一日、僕の心臓はよく頑張っていると思った。
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