夢の中

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夢の中

「こんばんは、遅くなりました」 「いや、八時ちょうどだよ、すごいね」 少し急ぎ足で近寄り、頭を下げると時計を見ながら松岡さんが眉を上げ、にこりとする。 眩しい。 それにこんなに近い距離。 四人掛けとはいえ、本当に四人座ったら密着してしまうような小さなテーブルに対面で。 「なに飲む? てか、飲める? 」 「あ、はい…… たしなみ程度でしたら…… 」 頬を染めてうつむき加減に答えると、じっと僕を見ているからドキッとする。 「あ…… 」 目が泳いでしまい、松岡さんが直視できない。 「たしなみ程度か、可愛いな」 え? さらに目が泳ぐ。 可愛い? 可愛いって僕のことを言った? 可愛いと言われたのは初めて。 男なのに、可愛いと言われてこんなに胸が踊るのは松岡さんに言われたからだ。 男だもん、普通だったらあまり良い意味でとらないんじゃないかな。 僕だって、イケメンだねとか綺麗な顔してるねとか言われたら「そんなことないです」って応えるけど、可愛いね、なんて言われたら(は? )って思うだろうに、松岡さんからなら、言われてときめいてしまっているもの。 「俺なんか夕方から暇だったから、一時間前から来ちゃってたよ、もう三杯目。あ、今日はバイト? って言い方でいいのかな? じゃなかった? 大丈夫? 」 すでに三杯目のジョッキビールだという松岡さん、かなり上機嫌に見える。 そうか、僕を乃上家の跡継ぎだと思っているから、バイトという言い方でいいのか訊いているのか、少し頬が引きつった。 言おうか、今。 今? 来てすぐに? だったら、電話をもらった時点で言えばよかったじゃないかってなるよな。 「バ、バイト…… です、お金はもらっているので…… 」 もごもごとなってしまう。 今度は違う意味で松岡さんの目が見れない。 「大学四年生だよね、三代目も厨房に入ったりするの? 」 もう、取材に入っているのだろうかと思わせる質問。今日はお近づきのしるしと言っていたよね、世間話しなのかな? 取材かな? 「あ、いえ…… 今のところ、ホールだけです」 「ゆくゆくは三代目も作ったりするんでしょう? 」 乃上家さんとか三代目とか、ひどく耳に痛い。それはそうだ、僕は違うのだから。 その時ジョッキビールが運ばれてきて、松岡さんは四杯目だったけれど、それでもまだほろ酔いな感じ。 すごいなって目がぱちくりした。 「おっ!とりあえず乾杯しようっ!」 「は、はい…… 」 ジョッキを持ち上げて軽くコツンと当てる。 松岡さんとこんな時間を過ごせるなんて、本当に夢みたいだ。 僕の印象としては、笑っている松岡さんがほとんどで、その笑顔は人との間の壁を全て壊してくれている。 仕事柄、なのかな。 まだ嘘です、と言えない後ろめたさを隠したくてか、ジョッキの半分ほどを一気に飲んだ僕。 「おっ!やるねー。たしなみ程度って、それでかー? よぉし、俺もだっ!」 それは楽しそうに松岡さんが同じく、ジョッキのビールをグビグビと飲み、残りは三分の一くらいになっている。 「あ、で、三代目…… 」 「あの…… 名前で、呼んでもらっても大丈夫、ですか? 」 継ぐ継がないは別として、本当の三代目の名前まで知っているのだろうか、僕の名前を言って反応を見ようと思った。 「名前? 三代目を? 」 「えっと…… 岬希(みさき)といいます」 僕も少しビールの酔いがまわってきたのかもしれない、考えてみたら大胆なことを言っている。 でも苗字を言うわけにはいかない。 僕は乃上(のがみ)じゃないもの。 「岬希? 俺は立記(りつき)だ、同じ『き』繋がりじゃん!」 それはご機嫌になって笑う。 それに、乃上家の三代目に当たる息子さんのことは知らない様子だ、大丈夫だ、あともう少しくらい…… もう少し、このままでいても。 楽しい、松岡さんとこんな時間、幸せすぎた。 面食いの僕だったけれど、ここまでの人はいなかった。 乃上家に初めて行ったのは、高校一年生のときに二つ上の先輩に連れて行ってもらってだ。大好きな、憧れていた先輩だったけれど、淡い恋心を持つだけで終わった。 だって、先輩が同性愛者かどうかを確かめるすべなんかなかったから。 それから一人で乃上家に通っては、先輩と一緒に来た思い出に浸っていたっけ。 そう考えると、乃上家には僕のときめく心がいっぱい詰まっている。 「でも名前呼びって、一気に近づき過ぎだろー!いくらお近づきのしるしだって言ったってっ!」 さらにものすごいはしゃぎっぷりの松岡さん、今の時間を楽しいと思ってくれているんだよね、よかった。 それにお酒のせいか、さらにフランクになってくれている。 「じゃー、岬希も俺のこと、立記って呼んでくれるか? 」 え? 立記さんって? そんな、嘘でしょう? そんな夢のような話し、といっても今だって夢のようなんだ。 そうだ、夢の中だ。 僕は夢を見ているんだ、などとそんなふうに思うことにしてしまう。 ばちは、後でいっぱい受けます。 だから今は、松岡さんとの時間を僕にください。
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