不快指数ゼロ

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不快指数ゼロ

「いえ、あの…… 昨夜は申し訳ありませんでした」 胸が痛いのは自業自得。 きちんと無礼を詫びて、そして、嘘のことをどうしよう、電話じゃ表情が見えないしな…… 。 などと思ったけれど、真実を打ち明けたらきっともう立記さんとは会うことはないだろう、表情を気にすることもない、謝罪をして打ち明けよう。 「申し訳ない? なにが? あ、具合はどう? 大丈夫? 」 申し訳ありませんでしたと言う僕に「なにが? 」と返される。 色々と謝らなければいけないことが飛んでしまいそうだ。 「あ、具合は大丈夫です、ご迷惑をおかけしました…… それに…… 」 「迷惑なんかかかってないよっ!なんか無理矢理飲ましちゃったかもな、俺。ほんとごめん、でもすっげー楽しかったよっ」 ………… 調子が狂ってしまうな。 「それに、昨夜の食事代も払っていなくて僕、本当にすみません」 「ええー!? お金なんかいらないよっ!俺が会いたいってお願いしたんだからっ」 俺が会いたいってお願いした 俺が会いたいってお願いした 俺が会いたいってお願いした またも、頭の中で繰り返される嬉しい言葉。 嬉しいなんて思っちゃだめだ。 「そういうわけにはいきません、払わせてください」 「なんだよ、律儀だなー。ま、岬希らしいけどさ」 一気に、僕のことをものすごく分かっているみたいな人になった。 でも僕は最低な人間なんだ。 「あの…… お話しがあるんです…… 」 「話し? 岬希から? なんだろーっ、ワクワクするなっ」 ………… 。 「あの、僕、実は………… 」 「え? あ、了解了解、今行くわ」 突然に立記さんが電話口の向こうの人へ話しているような感じで、スマホを口元から離したのか声がこもって聞こえた。 「あ、すみません、忙しかったですね」 「ううん、忙しくないんだけど、ちょっと呼ばれちゃって、ごめん」 「いえっ、僕の方こそすみません、お仕事中に電話してしまって」 「ぜーんぜん大丈夫。あ、そうだ岬希のおすすめの店、飯田橋の定食屋に行く日いつにするかな」 「あの…… それが…… 」 「ん? どうした? 」 『松岡さーん!』と、電話口の向こうで声が聞こえた。立記さんを呼んでいる。 忙しくないと言ってくれたけれど、やっぱり忙しいのだろうなと思って本当のことを打ち明けることに気後れした。 「わかったよっ、今行くって!…… ごめん、岬希。また連絡する」 「いえ、こちらこそすみません」 「いやいや、でも、声が聞けてよかった」 ── 声が聞けてよかった そんなことを言われて、自分がしていることも考えずに浮かれてしまう。 ぽっと頬も赤くなる。 「じゃ、また連絡するからっ」 「はい」 …… はいって、言っちゃってるじゃん、僕。 電話を切り、はぁぁぁーっと大きくため息を吐いた。 こんなにも本当のことを話すタイミングを失ってしまうって、もう一度くらい立記さんとの時間を過ごしてもいいのかな、なんて図々しい解釈をする。 「ごめん、ごめんっ!」 いつもいつも元気溌剌な立記さんが、手を振りながら僕に走り寄ってくる。 「待っただろう? ごめんな」 「いえ、全然、大丈夫です」 飯田橋の改札を抜けたところで待ち合わせ。 約束の時間を五分ほど過ぎただけなのに、ものすごく申し訳なさそうに眉を八時二十分にして僕の顔を見る。 あれから、取材で遠方に行くので飯田橋の定食屋に行くのはしばらく先になると、立記さんから連絡をもらい、ほっとしたような残念なような、もやもやとしながらなんとも言えない気持ちのまま時を過ごした僕。 取材から戻り連絡が来て、こうして飯田橋で待ち合わせをしている今はもう、梅雨も明ける頃。 すでに酷暑で、立っているだけで汗が吹き出す。 「暑いな、大丈夫? 」 「はい、あ、定食屋、歩いて十五分くらいかかるんですけど、すみません」 「なんで謝るのよ、行こう行こう」 「…… はい」 こんなに暑い中、十五分も歩かせてしまうのが申し訳なかったけれど、なんとも思っていないような立記さんにホッとする。 久し振りに見る立記さんは、変わらずかっこよくて素敵だ。 掻いている汗だって、キラキラと輝いている。 爽やかな汗、水を浴びたようだ。 僕は大丈夫かな? Gパンに忍ばせたハンカチで額の汗を拭うと、目をぱちくりさせながら口角が上がっている立記さん。 「さすがお育ちが違うな。ハンカチを持ち歩いているなんて」 にこにことして、目を細める。 「あ、いえ、そんな…… 」 普段は持ち歩いてなんかいない。 吹き出る汗を立記さんに見られたくないから、今日は持ってきたんだ。 できることなら汗拭きシートにしたかったけれど、拭いたあとのシートのやり場に困ってしまうと思った。 「岬希のおすすめの店、楽しみだなー」 二人で並んで歩いた。 体が触れそうで触れないような距離を保ったまま。 数日続いた暑さのせいで、熱をもったアスファルトが放つ不快な空気だって、今の僕にはいとわしくない。
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