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第二章 灯籠流しの祈り
夕日が沈む前に、美咲は由香を連れて嵐山の渡月橋へと向かった。川沿いのテント小屋で灯籠を求め、祐介の戒名を丁寧に書き入れた。
午後七時、たくさんの蝋燭が幻想的に揺らめく灯りで水辺を照らし出した。由香と橋の欄干にもたれかかりながら、祐介の灯籠が近づいてくるのを待つ。
「由香、足下を見てごらん。あれパパのじゃない?」
美咲の切なくも熱い想いに神様が応援してくれたのか、彼女は沢山の揺らめく灯りの中で、祐介の灯籠をすぐに見つけた。由香は目を凝らして、ゆっくりと流れてくる灯りを見つめた。
「ほんとだ、ママ。あれパパの灯籠だね! パパ……由香たちここにいるよ。会いに来たんだ」
娘の声には喜びと寂しさが混じっていた。美咲は娘の小さな手を握りしめ、祐介の灯籠が炎を揺らめかせながら、ゆったりと彼女たちの前を通り過ぎるのを見守った。
「パパ、元気にしてたかな?」
「きっとパパは黄泉の国でも元気にしていたと思うよ。ほら、今も私たちを見守ってくれてるからね」
美咲は優しく答えた。祐介の灯籠が川面を漂い、遠ざかっていくのを見つめながら、美咲は心の中で彼に語りかけた。
「私たちは元気にやってるから心配しないでね。娘もこんなに大きくなって、あなたによく似てきたわ。どうか、これからもふたりを見守っていてね」
娘にも母親の心の叫びが伝わったのだろうか……。娘は美咲の手をぎゅっと握り返し、優しく微笑んだ。
「ママ、たくさんお話しできてよかったね。来年もまた会いに来ようよ」
「そうだね、由香。毎年、こうしてパパに会いに来よう」
祐介の灯籠が川面をゆっくりと漂い、遠ざかっていくのを見つめながら、美咲は心の中で彼に語りかけた。美咲と由香は涙をこらえながら、しっかりと手を握り合った。蝋燭の揺らめく灯りが次第に小さくなり、やがて見えなくなるまで、目をそらさず、その光を心に刻んでいた。
祐介の残した余韻が美咲の心に広がり、温かく包み込んでいくのを感じながら、涙が頬を伝った。
夜空には美しい星が瞬き始め、静寂な川面には無数の灯籠の光が揺らめいていた。爽やかな風がそっと吹き抜け、ふたりの頬を撫でた。その瞬間、祐介がまだそばにいるような気がした。そして、美咲には遠くから祐介の声が「いつもありがとう」と聞こえたように思えた。
美咲たちが祐介と過ごせたのは、ほんのひとときだった。渡月橋の向こうに「大文字の送り火」が始まるのが見えた。それは、祐介の魂を送り出す別れの時が訪れたことを告げていた。
京都市内を囲む五つの山には順番に火が灯されていく。美咲は山並みにくっきりと浮かび上がる送り火、左大文字に続いて燃え盛る鳥居のマークに目を奪われた。その心の中では、祐介を偲ぶ炎が舞い上がっていた。美咲は再び由香と手を合わせ、祐介に伝えたかった想いを全身全霊で語り始めた。
「祐介、最後に言わせてね。娘も大きくなって、可愛くなったでしょう。あなたにそっくりなんだから。どうかまた会いにくるその日まで安らかに眠ってくださいね」
その言葉は彼に伝わったのか、鳥居の燃え盛る炎が一瞬揺らぎ、雲海の彼方に彼の顔が一瞬垣間見えたような気がした。その時、また色なき風に乗って祐介の声が届いたように思えた。それは愛する家族にしかわからない心と心のやり取りだった。
「美咲、聞こえているのかな? これまで、色々とありがとう。でも、そろそろ僕のことは忘れて、次の人生を歩んでほしいんだ」
由香もその光景をじっと見つめていた。美咲は思わず涙をこぼした。それは悲しみだけでなく、祐介への感謝と愛情が溢れた涙だった。
「ママ、パパもきっと喜んでいたんだよね」
「そうね、由香。…………」
祐介が亡くなって四年過ぎた。その夜、美咲は祐介の思い出を胸に抱きながら、複雑な気持ちで嵐山から家路についた。かけがえのない彼を忘れて、新しい旅路を受け入れることはすぐにはできない。たとえ、それが祐介の願いだったとしても。
けれど、いつかはそのつらい一歩を踏み出さなくてはいけない。美咲はそう心に決めていた。そろそろ、由香にも新しいパパが必要なのかもしれない。そして、自分には愛し愛される人が……
祇園祭の喧騒が過ぎ去ったお盆の静寂の中で、送り火に用いる護摩木の消し炭を、心の葛藤に苛まれながら白い奉書紙に巻いて我が家の軒先に吊るした。
愛する人を偲ぶ時間は、京都で生きていく彼女たちにとって、何よりも大切なひとときだった。美咲は心の整理がつく時まで、由香を連れて彼にまた会いに行くことを心に深く刻んでいた。
✽.。.:・゚ ✽.・゚ 〈終幕〉・゚ ✽.。.:・゚ ✽
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