夏葉書

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カメラを構える腕に汗が滲む。 ーー捉えるのは、萎れた向日葵を背景に廃線路と無人駅だ。 ピントを合わせてシャッターを切った。 『暑中見舞い申し上げる。 どうだ、俺のカメラは使い熟せているか。 ピントは合っているか。 お前の一分一秒の“今”を上手に切り取れよ』 じいちゃんの“今”を切り取った色褪せた葉書と写真は三脚と水筒の脇に並んでいる。年代物のカメラは、汗ばむ掌に。 小学生の時に届いた葉書に『使い熟せて』だなんて無茶振りだ。 ーー返事はまだ書けていない。 同じ場所に同じ時間帯。 同じ景色にならない相違は“後ろ向きの少女”が此処に居ないことだけだった。 「“初恋”に勝る一枚なんて撮れねぇよ……」 グイッと水筒の麦茶を飲み干す。 カランと 鳴る氷が涼しさをくれた。 ーーあと一枚だけ。 長く深く深呼吸。 顎に滴る汗を拭うとファインダーを覗いた。 静寂の中で目を見張る。 ピントがピタリ、だ。 過去と現在がフレームの中で重なり合う偶然。 麦わら帽子に揺れる長い髪 線路の上に花柄のウェッジヒールサンダル 短パンから伸びる脚は夕陽に染まり 爪先は線路の前方へ 一分一秒の“奇跡” 俺は息を止めてシャッターに指を掛ける。 「今年は、返事が書けそうだよ……じいちゃん」 名を馳せたカメラマンが一枚だけ愛した写真、それは憧れであり尊敬であり唯一無二の手本。 ーー"使い熟せているか"の無茶振りは、もう時効だ。 弱々しい蝉の鳴き声を聴きながらカメラを胸に抱いた。 じいちゃんを想って泣くのは、これが最初で最後の夏になる。(終)
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