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静子と喧嘩別れをしてからひと月後、一郎が勇の邸宅に訪れた。先日静子が座った場所に一郎が座る。勇が一郎の隣で紅茶を口に運ぶと、一郎は驚くべき報告をした。
「静子の婚約は破談になった」
「なぜだ?!」
勇が大声を出したので一郎は耳を塞いで怪訝な顔で話を続けた。
「静子の結婚に失敗なんて絶対に許されないわけ。だから何回も詐欺にあってきた僕は念を入れて陸軍大佐の吉田を調べたんだ」
勇は息を飲む。
「出身も良くて高給取り。経済的には潤ってたけど、けどだよ!異常だあいつは!」
「異常?」
「戦闘で切り落ちた自分の腕を家に飾ってるなんて噂があってさ!しかも交際した女は次々に失踪って話で、腕を切るのが趣味だってのが陸軍での吉田の評価さ」
勇の舌がからからに乾く。隻腕の男がそんな異常者なはずはない。未来の静子は幸せそうに笑うはずなのに。
「そんな男のところに静子はやれない!って今、言ってきてやったところ!当主として良い仕事したでしょ!」
ぱくぱくカステラを食べ始める一郎と違って、勇の背は冷や汗が伝う。
「今、破談を突き付けてきたのか?」
「そうさ」
「静子は?」
「女子学習院だよ。もうすぐ授業終わる頃かな」
「迎えは出しているな?」
「うちはもう迎えなんて出せないよ。静子はいつも一人で帰ってるよ?」
『学習院の帰り』と言い淀んだ静子が浮かぶ。静子は勇の負担になるまいと迎えがあると嘘をついたのだ。
「吉田が逆上して静子を襲ったらどうする!詰めが甘いぞ!」
「え?!」
勇は走り出した。どうか間に合ってくれと願いながらも、ここが勇の死に場所だと冷静に予感している。だが足は止まらない。
静子を守るためならば死へと喜んで駆けよう。隻腕の夫の正体は不明だ。だが今、静子を守って死ぬのは間違いなく、勇だ。
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