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「あんな言い方ないでしょう!!!」
そう声を荒げているのはお母さん。
私とお母さんは朝から口論になってしまっていた。というのも、原因は昨日の親戚集まりの一件である。
お母さんは由希ちゃんには配慮が足りなかったとその日のうちに謝罪したが、私には今日になって鬼の形相で口喧嘩を吹っかけてきたのだ。
「あんな暴言吐いて、そのまま逃げだしたんだからね!分かってんの琴子!!」
きっとお母さんがこんなにも激怒しているのは、私が「浅ましい」と言い捨てた叔母さんが、お母さんにとって義理の姉にあたる存在だからだろう。
「こんど謝りに行くからね!!!」
そう言い捨ててお母さんは仕事に出かけてしまった。
私も何か言い返してやりたい気分だったが、朝で頭が回らず、いらだった気持ちだけが残ってしまった。
もやもやを抱えたまま朝ごはんを食べていると、階段から由希ちゃんが下りてきた。
「おはよ~」
眠そうな目をこすりながら挨拶する由希ちゃんに、私は朝っぱらから愚痴を吐き出していた。
「お母さんがね、こんど叔母さんに謝りに行けって。もう、ほんっとに嫌だ」
そうプンスカと苛立ちを露わにする私に困ったような顔で対応する由希ちゃん。
すると、彼女が口を開いた。
「琴子、今日はさ図書館に行かない?外で気分転換しようよ」
なぜここで図書館なのだろう、と不思議に思ったが今は家にいるだけでお母さんへの怒りでどうにかなりそうだった。そのため、私は由希ちゃんの誘いに乗り、急いで用意を始めたのだった。
私が着替るために二階の自室へ上がろうとしたとき、由希ちゃんが声をかけてきた。
「琴子、“あれ”持ってきてね」
なぜ“あれ”が必要なのだろう。さらなる疑問を抱え、私は準備を始めたのだった。
私は小学校低学年以来、図書館には行っていない。というのも、このド田舎に家が建っているせいだ。家から図書館までは歩いて30分以上かかるのだ。
けれど、まあ由希ちゃんとの散歩は楽しいし、と私は由希ちゃんの日傘に入れてもらいながら、歩みを進めた。
道中、夏の日差しに体力を取られ、精気がぬける感覚に陥った。このままではいかんと思い、私は由希ちゃんに話題を振った。
「なんで今日は、わざわざ図書館なの?この前連れて行ってくれた、川でも良さそうな暑さだけど」
「んー。私ね、図書館っていう空間が大っ好きなんだよね。まだこの町の図書館には行ったことなかったし、前に琴子も小学校以来行ってないって言ってたし丁度いいと思って。」
そんなふうに会話を展開しているうちに、私たちは目的地に到着した。
こんなに仰々しい建物だったのか...
私は久しぶりに訪れた建物の大きさから、地方行政の力を再認識するのだった。
入口の自動ドアを通過し、たくさんの図書が保管されるエリアへと階段を上がろうとしたとき、由希ちゃんの声が私を制した。
「今日はね、こっち」
そう言って指さすのは、二階へと続く階段ではなく、地下へと続く階段だった。
「え、地下って行って大丈夫なの?職員さん用のフロアとかじゃないの、?」
私がそう戸惑いの声をあげるも、由希ちゃんは「大丈夫だよ~」と言って、ずんずん地下室へと降りていく。
すると、目の前には両開きの大きな扉が現れた。由希ちゃんは躊躇いなく、その重厚な扉を開いていく。すると目の前に現れたのは、
ずらっと縦長に続く机。そして、その机はひとり分のスペースごとに区切られている。
驚いたのは、その座席数の多さではない。その座席数を満員にせんほどの人の多さだ。
私が圧倒されていると、隣の由希ちゃんが口を開いた。
「今日は自習室、人が多いね~」
そうか、ここは自習室なのか。そう認識すると同時に、家を出る前に由希ちゃんが私に“あれ”を持ってくるよう打診したことに、合点がいった。
“あれ”とは、私の夏休みの課題である。
私は自習室というものの存在すら知らなかったため、図書館に課題を持ってくる意味すら分かっていなかったのだ。
「琴子、あそこ連番で空いてるから、そこに座ろうか」
そう言って、彼女は先陣を切る。
私はどこぞのアヒルの子のように、テケテケと彼女の後ろをついて歩いた。
熱心に机に向かう人の背中を眺めながら、目的の席まで進む。“自習室”という名から連想すると、この場に占めるのは中学生や高校生ばかりなのかと思っていた。
けれど、通り過ぎていく背中の多くは大人だった。むしろ中学生の自分が浮いた存在であるかのように思われるほど、大人の数が大半を占めていたのである。
熱心に本を読む者、パソコンを前に首をかしげながら作業する者、背中を丸めてペンを動かす者。
実に多様な作業をする大人が熱心に机に向かっている。
大人になっても“自習”をする人がこんなにも多いとは、私にとっては大きな衝撃であった。
「じゃあ、ここでお昼までお互い頑張ろうね」
目的の席の前まで来ると、由希ちゃんは小声で私に話しかけてくれた。
それに大きく頷いて返す。
私は大きなやる気に充ちていた。こんな世界を知らなかったから。
この“自習室”という名の空間で、名も知らぬ大人たちと同様に、自身の作業に没頭することのできる自分は、教室という世界で孤独を感じる子供ではない、違う世界の違う自分になれたような気がしたから。
私は意気込んで、数学のワークに手を付けたのだった。
「――子」
「――子」
「琴子」
いきなり肩に触れられて、反射で体を震わせる。
「!ごめん、驚かせて。時間も時間だし、お昼ごはん食べに行かない?」
もうそんな時間なのか、と時計を見やるとすでに14時になっていた。つまり、私は3時間ほど勉強していたことになる。
――気づかなかった。というか、あっという間に時間が過ぎていた。
自分がこんなにも集中できたのが初めてで、私はルンルンで近くのコンビニまで歩いた。
2人でおにぎりやお茶を買うと、私たちは図書館の休憩スペースで食事を楽しんでいた。
「琴子、すっごい集中してたね」
そう由希ちゃんが話しかけてくれたので、私はかぶせ気味に返答する。
「なんか私も初めての感覚だった!こう、なんかゾーンに入るみたいな。頭の中空っぽにして集中でき――――」
そして、話している途中で、頭の中のどす黒いものがよみがえる感覚がした。
「どうしたの琴子?」
いきなり口をつぐんだ私を不安そうな目で由希ちゃんが見つめる。
私は思い出してしまった、今朝のお母さんとの確執を。心にとどめておこうかとも思ったが、由希ちゃんには話そうと思い口を開く。
「思い出しちゃった。昨日の夜ね、ずっと叔母さんの一件のこと考えてたんだよ」
不快な気分を、スカートのすそを握ることでやり過ごす。
「私、間違ってたのかな。改めて思い返すと、男尊女卑だって文句言っておきながら、私だって食事の準備手伝ってなかったし。4歳の碧ちゃん泣かせちゃったし。」
一度吐き出すと、もう止まらなかった。私はそのまま胸中を目の前の由希ちゃんに吐き出す。
「浅ましいとか言ったけど、私だって由希ちゃんが叔父さんに絡まれてた時、何もできてなかった。しかも、その鬱憤を叔母さんにぶつけてた。これって思いっきりブーメランだよね、発言力の強そうな叔父さんには何も言えないくせに、叔母さんには文句垂れるっていう。」
自分の想いを言葉にするたび、その時に記憶がありありとよみがえってくる。鮮明に思い出すほどに、私は自己嫌悪が止まらなかった。
私は机に突っ伏して顔を覆う。そして、消え入るほどの声で心の奥底からの本音を吐き出す。
「なんかもう、自分が嫌になって来る」
一拍おいて、由希ちゃんは机に突っ伏した私の頭をなでながら、語り始めてくれた。
「それを言うなら、私こそ反省しなきゃって思ったよ。あの状況で不快感を感じたのなら、自分自身で“やめてください”って自分で言うべきだった。叔母さんにも叔父さんにも思うところがあるなら、琴子に言わせるんじゃなくて自分で言うべきだったって反省した。」
「だから、琴子がそんな気を病む必要ないよ」
それから数十秒ほど、由希ちゃんが頭をなでてくれていた。その時、私の中の誰かが抗議の声を上げた。
「いや、やっぱり違う」
私はゆっくりと顔を上げ、しっかりとした目つきで由希ちゃんを見つめる。
「確かに暴言吐いた私は悪いけど、先に嫌なことしてきた叔父さん叔母さんのほうも悪いよ、やっぱり」
言葉を紡ぐほど、自分の中に勇気と活力が湧いてくる。
「やっぱり負けたくない。こんな狭い世界で、こんな風に追い詰められていたくない。お母さんには流されない。自分の世界は自分で選ぶ。」
私が言い終えると、由希ちゃんは「じゃあ、その意気で頑張ろうか」と言って自習室に戻ろうと言ってくれた。
席に着くと同時に、私は自分の目標を思い出していた。
学校も親戚付き合いも、この狭い世界から逃げ出して、私は私の世界を自分で選び取るのだ。その切符を得るために、私はペンをとる。
―――由希奈side
琴子が休憩室で強く意気込んだあと、私たちは再び自習室に舞い戻り、それぞれの作業を続けた。
けれど私は、なにひとつ手につかなかった。休憩室での琴子との問答を思い返す。
私は彼女に言い放った。
「琴子が気に病む必要はないよ」と。
自分はなんと保守的な人間なんだろう。ここで琴子にかけるべき言葉は、こんな陳腐なものであるはずがない。
その言葉を言い放った私は、田舎の、狭い世界の住人のそれだ。
私はあの親戚集まりの場所で、琴子に示すべきだった。Noを言える大人のあるべき姿を。
けれど、私はここには二度と来ないと、逃げを決め込んだ。
この逃げは、琴子のそれとは違う。
彼女は戦うために逃げている。いや、今もすでに戦っている。自身の現状を変えようと、既存の価値観・環境にNoを突きつけ、自分の世界を模索している。
私はただ逃げていたのではないか?
奇しくも、この図書館という場所で私は、自分の記憶と迷いの渦に呑み込まれていった。
続く
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