「またね」

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「またね」

 砂漠の夜は冷える。地表から逃げていく熱を遮るものがないからだ。寒い日は摂氏零度に達することもある。  ナビィはヒデヨシから薄手のコートを受け取り、後部座席に跨った。さっきの感情の動きについて、しばらく黙って考えてみたが、やはり答えが出ない。納得できる解を見つけられぬまま、気づけば帰る時間がやってきてしまった。 「ヘルメット、なかなか似合うじゃねえか。そいつはきっとお嬢ちゃんに買われるために残ってたんだなあ」 「下手なお世辞を言うんじゃねえよジジイ」  マテオの軽口にそう返答して、ヒデヨシは自分のヘルメットを被る。  ナビィのヘルメットは、黒地に白い大きな星のプリントが入っているデザイン。まるで暗い夜空に輝く一等星のようで、ひと目見てとても気に入った。 「でもびっくりした。よくあの山の中から見つけたよね、マテオ」  ナビィがそう言えば、マテオは得意げに胸を叩く。  バイクの修理が終わったあと、ヒデヨシが「女性用のヘルメットはないか」とマテオに尋ねた。すると、「たしかあの中にあったはずだ」と言って、ガラクタの山から、マテオは目当ての商品を見事に掘り当てたのだ。 「俺にとっては整理整頓されてんのさ。あれでもな」  マテオの自信満々な様子に、ナビィは感心して両眉を上げる。 「なるほど。マテオもヒデヨシと同じタイプなんだね」 「ナビィ、余計なことを言うんじゃねえ」  ヒデヨシがスクーターのスイッチを入れると、今度はちゃんとエンジンが唸り声を上げた。発進に備えてナビィが腰にしがみついても、ヒデヨシはなにも言わない。一緒に乗るのは二度目なので、誰かに背後からしがみつかれる感覚にも、もう慣れてきたらしい。 「マテオ、また会おうね! それまで元気で!」  片手をブンブン振りながらそう言うと、マテオは呆気に取られたような顔をしたあと、黄ばんだ歯を思い切り見せて笑った。 「……そういう明るい笑顔で『またね』なんて言われると。またお嬢ちゃんに会えるまでは生きてないといけねえなあって思わされるな」  その笑顔はどこか寂しそうで。このときのマテオの顔は、残像のように、ナビィの記憶に残った。    ◇◇◇  きらきらと輝く星空の下、軽快なエンジンの音を響かせながら、愛車のスクーターが砂漠を駆けていく。 「ねえ、ヒデヨシ」 「なんだよ」  うしろから話しかけてくる相手に、ヒデヨシはぶっきらぼうにそう返す。 「マテオは、どうしてあそこでひとりで暮らしてるの?」  当然の疑問だ。いくら物好きの爺さんだと言っても、あんな辺境に住む理由がないわけがない。ナビィが不思議に思うのも当然だ。  ヒデヨシは一度黙り、逡巡する。  –––ジジイも俺の過去をしゃべったわけだし、多少話してもいいだろ。  そう心の中で言い訳すると、ヒデヨシは記憶を辿るように話し始めた。 「ウイルスが蔓延して、世の中の仕組みが次々と崩壊していく中で。政府は真っ先に貧民街を見捨てた。外出禁止令が出る中、外に出たものは警備隊に撃たれた」  頭の奥に押し込んでいた記憶が蘇る。あれは、自分たちが旧市街に住んでいた頃だった。 「ようやく開発されたワクチンには限りがあり、権力者や富裕層に回される。貧民街では大人も子どもも病院には行かせてもらえず、道端には死体が溢れた。それで不満が爆発した貧民街の有志で、政府に対するデモをやろうってなったことがあって。地域の取りまとめ役になってたマテオが、先導役に担ぎ上げられたんだ」 「そんなことがあったんだね」 「だけど警備隊の猛攻に遭って。おまけに集団で行動したことで、感染も広まった。日和った奴らがマテオを首謀者として警備隊に突き出した。貧民街の民衆を煽ったのはコイツだって言って」  ナビィのヘルメットが、ヒデヨシの背中に押しつけられる。 「ひどい……」 「とっ捕まって、ひどい暴行を受けて。五年間マテオは牢獄にいた。あのオヤジが足を引きずってるのはそんときの怪我だ。娑婆に出てからあそこに住み着いた。きっと、もう人間と関わるのが嫌になったんだろうな」  マテオの気持ちはわかる。ヒデヨシも同じような思いをしたことがあったからだ。 「俺があのオヤジを訪れるのも、本当は嫌がられてるのかもしんねえ。でもトシだしな。放っておいて死んだら寝覚めがわるい」 「そんなことないよ。気にかけてくれるヒデヨシの存在は、マテオにとって救いになってると思うよ」  ほら出た。またナビィの理想論だ。彼女は本当に心がお綺麗で羨ましい。 「どうかな。俺は半分ケンカしにいってるようなもんだけど」 「でもさ」  少し黙ってから、ナビィはふたたび言葉を紡ぐ。 「いくら人間関係が煩わしかったとしても。ずっとひとりでいたら、きっと何度も辛い場面を思い出して、寂しかったり、苦しくなったりすることもあると思うの」  背中に向かってつぶやかれた彼女の言葉が、ゆっくりと溶けて、ヒデヨシの心に響いた。  人との関わりを絶って、過去も捨てて。苦しみから逃げた先には静寂があった。それども記憶が消えることはなく、毎夜過去の亡霊に追い立てられ、終わりなき重苦とひとり向き合い続けることになった。孤独になったからこそ、過去に真摯に向き合わねばならなくなったとも言える。  孤独で冷たい牢獄の中、人恋しさを感じたことがないと言えば嘘になる。 「……まあ、そうだな」  腰に回されたナビィの腕に、力がこもる。 「私、また、マテオに会いに来たい。今度はお弁当を持って」 「遠足かよ」 「美味しいご飯をみんなで一緒に食べると、幸せな気持ちになるでしょ? あ、ヒデヨシも一緒に来るんだよ?」 「はいはい。ったく、お前はお優しいな」  適当な返答を返しながら、ヒデヨシはナビィの変化について考えていた。  自分の生に必死になるあまり、他人を見捨てる人間たち。見捨てられた保護施設の子どもたちや、辺境でひとり暮らすマテオ。現実の悲惨さを、着実にナビィも理解して来ている。  ––––それでもコイツは希望を捨ててない。辛い現実を、誰かとより良く生きるための術を常に探してる。 「なんか、こういう時間っていいね」  不意に、ナビィが言った。 「こういうって、なんだ。っていうか、聞き取りづらいんだよ、走りながらだと」  背後に乗っているナビィは無邪気に笑い、声の音量を上げる。 「こうやって、ふたりで、星空眺めながら。一緒に砂漠を走るって、いいなあーって! 何気ない瞬間だけど、幸せ感じない? ねえヒデヨシくん!」 「おい! 急に騒ぐんじゃねえ! 俺が驚いてひっくり返ったらどうすんだよ!」 「ヒデヨシが聞こえないっていうから、大きい声で話したの! 大変な世の中だけどさ、こういう瞬間を大切にしたいよねー!」 「お前もう黙っとけ。家帰ったら聞いてやるから」 「はーい!」  底抜けに明るいナビィの声を聞きながら、ヒデヨシはしかめっ面で前を向いた。  人間の終焉は確実に近づいている。目の前に広がる終わりなき暗闇は、やがて自分達をも飲み込むだろう。  しかし今日も月は輝いていて、星は瞬いている。そしてきっと朝には、ナビィの「おはよう!」という元気な声に起こされる。  そう思ったら、これまでずっと凍えて冷たくなっていたヒデヨシの心は、まるで微温湯に浸かっているかのように温かく、救われたような気持ちになった。 「……こういうのも、悪くないかもしんねえな」 「何? 聞こえなーい!」 「聞こえなくていいんだよ!」
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