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過去の呼び声
ようやく、誰にも恥じないとびきりの栄誉を手にできる。もう「貧民街のハイエナ」だなんて言わせない。
そうしたら、俺はお前に––––。
目の前に「彼女」の姿が現れる。懐かしくて、ふたたび会えたことが嬉しくて。彼女に向けて、ヒデヨシは手を伸ばす。
しかし彼女は泣いていた。
「ヒデヨシは、私を愛してるんじゃない」
––––なんで、そんなことを言うんだ。俺は、俺は。
「あんたは、貧民街の星だなんて言われて、世間から評価されて。築き上げた地位を使って『恋人に尽くしてる自分』を愛してる」
––––違う、違うって。
「私は別にあんたに、国に認められるような研究者になってほしいわけじゃない。ただ、幸せな時間を共有したかった。昔みたいに、バカなこと言って、ずっと笑ってたかった」
「俺は、お前のために……」
彼女は、顔を覆い、涙声で絞り出すように自分の気持ちをヒデヨシに突きつける。
「私はずっと寂しかった。寂しかったんだよ……」
地面が揺れる。
いつの間にかふたりは建物の中に居た。大理石のフロアにヒビが入り、彼女の足元の床が崩落する。足を取られた彼女は、地の底に向かって雪崩のように落ちていく瓦礫とともに闇に吸い込まれていく。
「エレナ! エレナ! どうして––––どうしてこんな」
「ヒデヨシ! ヒデヨシ!」
押しつぶされるような絶望の中、白い腕が自分を引き上げる。声のする方を見上げ、まぶたを開けば、目の前にはヘーゼルブラウンの長い髪を揺らす、妖精の姿が見える。
冷房が効いているはずなのに、ヒデヨシはぐっしょりと汗をかいていた。
「よかった、起きた。すごい苦しんでたよ?」
「ああ……そうか……夢」
深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。体が冷え切っていて、唇は小刻みに震えていた。
「大丈夫? ハーブティいる? いつもの落ち着くやつ」
「……サンキュ。もらっとくかな」
ナビィは自分の胸を、バンバン、と拳で叩き、「任せて」と意思表示をすると、くるりと背中を向けてキッチンに向かっていった。
あれから、ずっとひとりで生きてきた。話し相手といえばパソコンの向こうにいる仕事相手のみ。プライベートの会話といえば、マテオのところに行ったときに、軽口を適当に受け流すくらいのものだ。
「お待たせ」
ソファーに掛け直したヒデヨシのもとに、ナビィはふたり分のカップを持ってきた。テーブルの上にうず高く積まれた本の束をヒデヨシが雑に脇に退けると、ナビィはそこにカップを置く。
「本は出したらもとの場所に戻しなよ」
「うるせえな、全部同時並行で読んでるんだよ。読み終わったら戻す」
「あ、お茶のお礼は?」
「はいはい、ありがとさん」
「気持ちがこもってない」
「うるせえなあ」
カップを口に運ぶと、カモミールの爽やかな香りが鼻を抜ける。こわばった体の筋肉が緩み、じんわりと温もりが体に広がった。
「ねえヒデヨシ」
「なんだ」
「さっき、うなされながら、エレナって言ってたけど……」
心臓がドクンと波打つ。他人の口からその名前を聞くのも、ずいぶんとひさしかった。
「マテオからも少し聞いたんだけど……もしかして、エレナさんって、ヒデヨシの、亡くなった恋人……」
「エレナのことは、お前には関係ない」
ナビィの言葉に被せるようにそう言い、ヒデヨシは沈黙した。
––––誰にも話したくない。
この痛みは自分だけのもので、他人に共有できる類のものではない。
気まずい空気の中、ナビィは自分のカップに口をつける。ヒデヨシの方をチラチラと伺ったあと、何事もなかったかのように、話題を変えた。
「眠れないなら、やっぱりベッドで寝た方がいいよ? 私は別にソファーでもいいし」
「お前をソファーに寝かせるわけにいかない」
「だったら一緒に寝ればいいじゃん」
「あーのーなー」
危機感の欠如もここまでくると心配になる。ヒデヨシが言い返そうとすると、ナビィが先に口をひらく。
「いつも寝る前飲む薬。あれ、眠くなるために飲んでるやつじゃない?」
飄々としているようでよく見てやがる。ヒデヨシはナビィから目を逸らし小さく舌打ちをした。
「不眠でこんなに体の大きな人が、ソファーに寝続けてたら体壊すよ?」
「いや、だからってなあ」
押し問答の末、折りたたみの簡易ベッドを購入し、ナビィはそこで寝るということで決着した。
「一応女なんだから、もうちょっと警戒心を持てよな」
スマートフォンでベッドを注文しながら、ヒデヨシはナビィに向かってそう言った。
「持ってるよ?」
「持ってない」
これで持っているなら、セキュリティが甘すぎる。
「ヒデヨシだから信用してるの。私の嫌がることはしないってわかってるもん」
人懐っこい笑顔を向けられ、ヒデヨシはゲンナリした。
––––お前の俺に対する信頼はどっから来てるんだ。
盛大にため息をつき、残ったカモミールティを一気に煽ると、ヒデヨシは郵便ポストを確認し、中に入っていた紙袋を取り出し、ナビィに放り投げる。
「ナニコレ」
「昨日スクーターが壊れた時点で、ネットで適当な服を一式頼んどいた。よく考えりゃ、悠長に店で服を選ぶより、そっちの方が手っ取り早いと思ってな」
ナビィは紙袋の封を破る。中からは、ペールグリーンの薄手のパーカーと、ベージュの綿素材のパンツ、白い靴下に黒いスリッポンが出てきた。
「ありがと! ごめんね、いろいろ買ってもらっちゃって」
「仕方ねえだろ。……面倒みるって言っちまったんだから、身元がわかるまでは世話してやるよ。とりあえず着てみろ。今日は夕方新市街に出るからな」
申し訳なさそうにしつつも、子犬のように嬉しさを全面に押し出すナビィを見て。ヒデヨシは戯れに、彼女の頬を軽くつまんだ。
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