1. 子供へと還る

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1. 子供へと還る

 祖母の目に映る世界は、きっと綻びだらけなのだ――――。  私にはその光景が見えない。でも、確かに存在しているらしい。現実という布地がほつれ、糸がほどけ、別の次元が(のぞ)く瞬間。それを祖母は見ているのだ。  雑貨屋「みつばち」のドアベルが、かすかに揺れる音を立てた。梅雨の晴れ間を縫って差し込む陽の光が、棚に並ぶガラス細工たちをキラキラと煌めかせる。その光の中を、ゆっくりとよたよたと歩む祖母の後ろ姿。 「美咲や、そこの青いグラス、割れとるよ」  祖母は細い指で、棚の一点を指す。私の目には、ヒビ一つない美しく輝くグラスが見えるだけだ。 「おばあちゃん、割れてなんてないよ。大丈夫……」  優しく諭すように言いながら、私は祖母の背中に手を添えた。その感触は相変わらず温かく、しっかりしている。でも、その心の世界はもう私の知る祖母のものではない。 「認知症ですね。お薬を出しておきましょう」  医者は事務的にそう言うだけだった。薬といっても認知症に治療薬などない。単に進行を遅らせるだけだ。その未来に希望のない現実に私は囚われ続けてしまっている。        ◇  雨音を聞きながら、私は祖母の横顔を見つめていた。かつての聡明さの影を探すように。 「おばあちゃん、覚えてる? 私が小学校の時、一緒に星を見に行ったこと」  祖母は曖昧に微笑むだけで、返事はない。  私はため息を一つ――――。  そして、その表情に、昔の面影を重ね合わせる。  十歳の夏の夜。祖母と手をつなぎ、町はずれの小高い丘へ向かった時のこと。真っ暗な道を懐中電灯一つで進みながら、私は不安で祖母にしがみついていた。 「美咲、怖がることはないのよ」  祖母は優しく諭す。  「暗闇は神秘を隠している。でも、目を凝らせば、素晴らしいものが見えてくるの」  丘の上に着くと、祖母は古ぼけた望遠鏡を取り出した。 「さあ、見てごらん」  のぞき込んだ私の目に、今まで見たこともない美しい星々が飛び込んでくる。金色に輝く星のそばに碧く美しい宝石のような星が寄り添っている。 「す、すごぉい!」 「これがアルビレオ、はくちょう座のくちばしの星。見た目はただの星だけど、望遠鏡で見たら色鮮やかに輝くのよ」  祖母は嬉しそうに笑った。 「おばあちゃん、なんでこんなこと知ってるの?」 「ふふっ、昔は天文学者を目指してたのよ。そんなお金にもならないこと、若かったのね……」  祖母は意外な過去を語り、そして星座にまつわる物語を次々と語ってくれた。その博識と優しい語り口に、私は魅了されていく。家に帰る頃には、暗闇への恐れは消え、代わりに宇宙への憧れが芽生えていた。 「美咲、覚えておきなさい。知識は力だけど、想像力はもっと大切。この広い宇宙には、私たちの想像を超えるものがたくさんあるの」  あの夜、祖母はそう言って私の頭をなでた。その言葉は、私の心に深く刻まれ、今も時折思い出す。  そんな祖母が、今は……。 「美咲や、窓の外に小人さんが踊っとるよ」  妄言を口にする祖母を見て、つい涙が浮かんでしまう。かつては天文学から料理、裁縫に至るまで何でも知っていて、どんな質問にも答えてくれた祖母。今では、日々の生活すら一人ではおぼつかない。 「おばあちゃん、小人さんなんていないよ」  そう言いながら、ふと祖母の昔の言葉を思い出す。 『この広い宇宙には、私たちの想像を超えるものがたくさんある』  実は見えていないのは自分の方かもしれない?  ふと、そんなことを思ってしまって首を振る。そんなはずはない。現実から目を背けてはいけないのだ。私がしっかりしないと――――。  でも、心のどこかで、祖母の「幻覚」が何かを意味しているのではないかという想いはぬぐえなかった。          ◇  祖母・桃子が「おかしな」ことを言い始めてから、もう半年が過ぎていた。最初は些細なことだった。庭に咲いてもいない花を見たと言い張ったり、十年前に亡くなった祖父と話したと嬉しそうに報告したり――――。  でも最近は、その「幻覚」とやらが、どんどん具体的になっていく。そして時々、背筋が凍るほど不気味な描写をするのだ。 「美咲や、表の信号機が紫色に変わっとるよ」 「おばあちゃん、信号機のライトの色は変わらないのよ?」  毎度の妄言に深くため息をつく美咲。  しかし、しばらくして店の前が騒がしくなった。本当に信号機が故障して、見たこともない色でスパークしていたのだ。偶然? それとも……。  私、佐藤美咲(みさき)、二十九歳。両親は事故で他界し、この町で祖母の手で育てられた。地元の大学を出て東京へと就職したものの、アグレッシブな周りの人たちについて行けず、挫折してこの街に戻ってきてしまってもう五年。特別な才能もなく、目立った特徴もない。ごく普通の、どこにでもいる女の子。  祖母の雑貨屋を手伝い始め、この頃は何とか一通り店を運営できるようになってきていたのだ。  そんな私の日常が、祖母の「異常」とともに、少しずつ、確実に歪んでいく。現実という名の布地が、ほつれ始めていた。
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