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第2章
第2章…01
いつものように、皐月のベルが私を呼んだ。彼女がいつ来ても飛びだせるように、着替えならとっくに済ませている。素早く立ちあがり荷物をもつと、いっきに階段を駆けおりる。
階下で仕事をしていた母が、そんな私の姿をとらえ手をとめた。こちらへ歩きながら、どこへ行くのかと問うている。遊びにいくとだけ言葉をかえし、私はそのまま外にとびだした。
足を止めまともに向きあえば、母のお小言に付きあわされるはめになる。下手をすれば、出掛けられなくなる可能性もあるのだ。母は自分の都合で私の友達を追いかえす、そんなことを平気でする人なのだ。
「待ちなさい! ……待たんかーー!」
そんな母のおおきな声を背に、私は皐月の後ろにとびのった。外まで追いかけてきた母をみて、皐月も慌てたように強くペダルを踏む。
「おばちゃん、機嫌わるっ……」
「あんなん、いつものことやん」
「いつもよりやばくね? ……今日、そうとう怒られるんじゃねえんな」
「大丈夫よ、門限やぶらんけりゃ。兄ちゃんがおるし、なんとかなるわ」
「門限か、時間みちょかなやんな。っていうかさ、……朱里の兄ちゃん、よう認めてくれたでな」
「認めるっちゅうか、見張っとくんじゃけえのって、言いよったけどな」
あの日、出掛けるといって家をでた光羅。しばらくして帰宅した兄は、私の部屋へとやってきたのだ。そして自分が言いつけていたことを、しっかりと考えてみたかと訊いてきた。
彼らがやってきたことは、いけないことだと理解できるとこたえた。過去のことはどうしようもない、しかしこれからはさせないように自分も頑張るとつげた。
ため息のようなものをついた光羅だったが、その表情は落胆のものではないように見えた。「あいつも似たような感じだった」という兄のことばで、隼斗のところに行っていたのだと気づいた。
認めたのではない、見張っておくと言った光羅。その真意はわからない、それでも行くなと言われるよりはましだと思った。
「……ん? 誰もでてこん」
「まだ寝ちょんとか? ……まさかでな」
いつものように玄関まえで少しだけ迷い、やはりチャイムを押してしまった私たち。しばらくじっと待ってみたが、中からの反応がないことに戸惑う。
皐月の目が、「どうする?」と私をみる。すこし悩んだ私は、ゆっくりとドアノブに手をかけた。しかしすぐに手をはなして振りかえり、「やっぱ無理」と瞳でこたえる。苦笑いの皐月が、ふたたびチャイムを鳴らした。
扉に耳をよせて、息をひそめて中のようすをうかがう。しばらく経つと誰かが玄関に近づいてくる、そんな気配を感じとることができた。しかしこれは隼斗ではないな、そう思わせるようなゆっくりとした気配だった。
「……だれ?」
「あ、おばちゃん……ごめん」
扉のむこうから聞こえた声は、彼の母親のものだった。私の声を確認すると扉をあけて、呆れたように肩のちからをぬいた。
「あんたら、ばかじゃないんね。鍵あけちょんけえ、勝手に入れっていつも言いよんじゃろうがね。ほんっと、もう……」
「だってぇ……」
「なんが、だってかよ。おばちゃんは朝まで働きよんじゃけん、こんな時間はまだ寝ちょんって言ったろうがね」
「ごめぇん……」
「ごめえん……じゃねえで、はよ入らんかよ。なんし隼斗みたいな馬鹿に、あんたらがくっついちょんのか、ほんと……わからんわ」
雑なことばを放ちながらも、背中に手をそえて優しくなかへと誘いざなってくれる。玄関の内側が広くかんじることに違和感をかんじ、足もとをみてから彼の母親の顔をみた。
私の顔に文字でもかいているのか、彼の母親は隼斗たちは出掛けているとこたえた。そして行先はしらないが、私たちが来たらなかで待つようにと伝言をことづかったと続けた。
すぐに帰るのかと訊けば、行先もしらないのにわからないと笑う。はやく部屋にいけと言わんばかりに背中をおして、冷蔵庫から勝手に飲み食いしなさいよという言葉をのこし奥の部屋へときえていった。
「なあ、買い物ってなんやとおもう?」
「んー、わからんけど。……煙草か、なんかやねんな」
「茅野もいっしょやろ? 煙草くらいやったら、ひとりで行くじゃろ」
「ああ、そっか……。けど、すぐ帰ってくるやろ」
わざわざふたりで出掛けたということに、なんとなく疑問をいだいてしまった。もうすぐ夏休みも終わってしまう。そうなれば長い時間をともに過ごすことは困難になってしまう。
残された貴重な数日だとおもうと、彼たちが留守をしていることに多少の不満をかんじてしまった。しかしここは皐月のいう、すぐに帰るということばに望みをかけ待つしかない。
畳のうえに散らばった落書帳をひろいあつめ、こたつ台のうえに揃えておいた。そこから一冊のノートを手にとった皐月は、畳に寝ころがり落書きをはじめる。そんな彼女のことをみて、器用だなと感心してしまう。
心地よい室温の、静かな和室。壁にもたれてノートを見ていたはずの私だが、時折すうっと意識を失っていることに気づく。ふと見れば、皐月の手もとまっている。
そっと彼女に近づいて、同じように横に寝ころがり顔をのぞきこむ。こくりこくりと揺れるあたま、するりと彼女の手からペンが落ちた。笑いをこらえながらペンをひろい、キャップをしてノートの横においた。
彼女の書きかけの落書帳を自分によせて、なにを書いていたのかと覗きみた。だがしかしそれを読み終えるまえに、私の意識もかんぜんに持っていかれてしまった。
どのくらいの時間、眠ってしまっていたのだろうか。電話の音に目をさまし、部屋のなかを見まわした。窓からの陽光の角度は変わっているが、隼斗たちはまだ帰っていないようだ。
鳴っていたのは、玄関ちかくに置いてある固定電話だった。隼斗の母親がやってきて、よそいきの声色で電話にでた。すこしして重い返事をした母親は、電話をきってこちらへやってくる。
「ちょっと、朱里……開けるで」
「……うん、どしたん?」
「おばちゃん用事ができたけん、あんたら今日は、もう帰りよ」
「え、なんで? 隼斗たち待っちょったらいけんの?」
「……んー、おばちゃん遅くなりそうやけん。……鍵、かけるけん。とにかく、もう帰りよ」
鍵はしないから、勝手にはいれ。誰もいなくても、あがっていい家。たしかにいつも、そう言われていた。母親が出掛けるにしても、じきに隼斗たちが帰ってくるはず。なぜ今日にかぎって、母親は帰れというのだろうか。
私たちは慌ただしく立たされて、急かされるように玄関へと促された。多くは語らない隼斗の母親の、たどたどしい理屈も気になる。
「なんな! あんたら……まだおったんな。おばちゃん行くけんな、もう帰んなさいや」
気忙しいようすで出てきた彼の母親は、玄関のまえに立ちつくしている私たちをみて渋い顔をした。すぐさま本当に鍵をかけて、慌てたようすで階段をおりていった。
全く状況がつかめないままに、追い出されてしまった私たち。どうしてだと質問を投げかけながら、彼の母親のあとを追って階段をおりていく。
階段をおりきってしまうと、そこには一台のタクシーが待機していた。彼の母親は私たちのほうを見ることなく、そのタクシーに乗りこみ行ってしまった。
その場に残されてしまった私たちは、成す術なくタクシーを見送る。ふたり言葉をかわすことすら忘れ、しばらくぼんやりとその場に立っていた。
「……え、どうする」
「鍵、されたしな……。どうしょっか……」
「朱里のおばちゃん、機嫌わるかったし……。鍵かかっとるけん、入れんし。……もう、帰る?」
「……そうよな、入れんしな。帰ろう……か……」
来るときとはちがって重い気持ちで、自転車には乗らずに押してあるく。隼斗と別れるまがり角より、ひとつ手前の角で皐月とわかれた。
自宅に向かうにつれさらに足取りは重くなり、なんども立ち止まっては振りかえった。いつものまがり角まできて、ふたたび立ち止まり振りかえる。そして私は進路をかえて、いま歩いてきた道をもどってしまう。
市営団地のしたまでもどった私は、階段のしたにすわりこむ。ふと思いがよぎり、立ちあがって階段をのぼった。三階の玄関のまえに立ち、勇気をふりしぼりドアノブをまわしてみた。
期待していた状況にはならず、肩をおとして階段をおりた。ほかの利用者の邪魔になってはいけないと、団地のまえの駐輪場のそばの石段に腰をおろした。
すっかりと辺りは暗くなり、門限の時間などとっくに過ぎていることは明らかだ。どうして隼斗は帰ってこないのだろうか。心細くなりながらも、ずっとその場に座りつづける。
ひとの気配がすれば立ちあがり、ちがうとわかれば再びすわる。隼斗の家以外の家のあかりは、すべて灯されているように感じる。
静かになってしまった団地の道路に、車の音が聴こえたきがして立ちあがる。角をまがってきた車のライトが、こちらへ向かって近づいてきた。
目のまえに停車したのは、隼斗の母親が乗っていったタクシーだった。もしかして隼斗も乗っているのではないか、そんな期待もむなしく降りてきたのは彼の母親ひとりだった。
「朱里? あんた……まだ、おったんな! ばかじゃないんね、この子は……」
「だってな、おばちゃん。……隼斗がな、まだ帰ってきとらんので」
「あのバカなんか待っちょらんで、いいけん……はよ帰りなさい」
「けど……」
「けどじゃないやろうがね! ……親が心配するやないね。……いいか、もう帰るんで。いくら待っちょっても、今日は……あん子は帰ってこんのやけん」
足をとめることなく階段をあがる、彼の母親のあとを追った。玄関のまえについたとき、彼の母親はふり向き隼斗は帰らないといった。
どうしてだと質問を投げかけたが、それに答えはかえってこず扉は閉められてしまう。急いでドアノブに手をかけたが、なかからは施錠される音がひびいてしまった。一気に押しよせる虚無感に、鼻の奥がつーんと痛くなった。
「……お前、こんな時間まで……ここで何しよんのか」
階段から声がして、そちらを振りかえり涙がこぼれた。扉のまえで立ちつくしている私のもとまで、声のぬしはゆっくりとあがってくる。
こんな時間といわれ、はっと現実に引き戻された。そうだ、こんな時間なのだ。門限を少しすぎたなどの、そんな軽いものではなかった。また母親に叩かれる、そう思った。
階段をのぼりおえた声のぬしは、ほっとしたように私を抱きよせた。心配をさせてしまったことを、後悔してしまう。やはり皐月と帰ったあのときに、そのまま家に帰るべきだった。
「……こんな時間まで、外におっちょったら心配するじゃねえか。……なんかあったら、どうすんのか」
「……ごめん、兄ちゃん。門限……また怒られる……」
「大丈夫っちゃ、お母にはなんも言うなっていっちょるけん、今日は怒られりゃあせんけん」
「あんな、……隼斗を待っちょったんやけどな、おばちゃんがな……」
「そん話はいいけん。……ほら、もう帰るぞ」
光羅は話をさえぎって、私の手をとり階段をおりはじめた。本来ならば門限をやぶった理由を訊いてくるはずなのに、まるでその話をさけるような雰囲気だ。
隼斗は帰らないといった、彼の母親の言葉がよみがえる。もしかしたら兄もそのことばの意味を、隼斗が帰らない理由をしっているのだろうか。
帰路の途中の街灯のした、見あげた光羅の横顔がこころなしか不安気にみえた。そんな兄の顔をみて、私はなんだか泣きそうな気持になる。
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