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第1章…03
空腹をみたした檻のなかの動物たちが、睡魔とたたかう昼さがり。窓からの陽ざしが心地よくてしかたなく、近くの席から聞こえてくる女子のおしゃべりが子守唄のように感じてしまう。
ふわふわと浮遊をはじめる私の意識を、かろうじて繋ぎとめているのは男子の幼稚なあそび。
教室の後方にある清掃用具のロッカーの扉が、おおきく開けっ放しにされている。
中に収められているはずのホウキの姿はなく、それは廊下で紙球を打っている男子の手に握られている。幾度となく窓ガラスを鳴らす紙球の音に、不快を感じるたびに私の意識がもどってくる。
廊下の隅にかけられている雑巾は、彼らには雪の玉にみえるらしい。ほこりまみれの汚れた雪の玉を投げつけあって、教室の中はまるで幼稚園の園庭のような状態だ。
がたがたと音をたてて、動きまわる机。前方不注意の男子が私の机にぶつかりでもしたならば、もう私の苛々はいっきに山頂にたどりつくだろう。
「ちょっと! まじでうるせえんやけど! 廊下ではしれ、廊下で!」
私の表情に気づいていた皐月が、近くにきた男子を怒鳴りつけた。言葉では言い返してこない男子だが、その表情は彼女の言葉に対して反抗的だ。
例えるならば「よそのクラスのやつが何いいよんのか」というような、そんな表情で皐月をみたのだ。ぷちんという音は聞こえてはいないが、私の中でなにかが切れた。
ぼそりと一言「くそがき」とつぶやき、私は瞳だけを動かして男子をにらむ。やはりなにも言い返してはこない男子だが、情けない笑みを見せた後いそいそと教室から出ていった。
「なあ、朱里……、あれって茅野じゃねえ? なんでこんな時間にきたんやろ……」
「うん、なんやろ。忘れもの? ……とかあるわけねえしな」
幼稚な同級生を見送った扉から、入れ違うようにひとりの生徒が入ってくる。めったに学校へは来ないうえに、くるときは決まって手ぶらでやってくる生徒。
そんな彼が忘れものなどするはずもなく、こんな時間に現れることの意味がみいだせない。
まわりの生徒からも学校側からも不良と位置づけされている茅野から、さりげなく距離をとろうとする他の男子生徒。
そんな彼が教室に一歩踏みこみ、何かを探すように見まわしている。目があってしまった私はあわてて視線をそらしたが、わずかに残した視界のなかに彼が向かってくる姿がみえていた。
皐月もやはり同じように、こちらへ向かってくる彼の姿に動揺をしているようだ。「なにかやらかした?」と視線で私に問うてくるが、それはこっちが訊きたいセリフだと瞳でかえす。
「おい、お前らってさ。こないだの日曜日に、小学校の運動会とかっていった?」
「なんでな!」
「はあ? なんかその返事……。なんでじゃねえわ! 行ったかどうかって訊きよんのじゃけ、それだけ答えりゃいいんじゃ!」
「なんで答えらないけんのな!」
てんぱってしまっていた皐月は、第一声から彼に噛みついてしまった。それに返ってきた彼の言葉が乱暴だったことに、彼女も引っ込みがつかなくなったのか更に噛みつき続ける。
そんな彼女のことを怖いもの知らずというべきか、それとも頼もしいと思うべきなのか。どちらにしても始まってしまったふたりのやりとりを、私はそっと見守ることにした。
茅野は言い返されると思っていなかったのだろう、眉間に皺をよせて皐月をにらむ。彼女のほうも意地になってしまったのか、ちいさな身体を反りかえして彼に対抗していた。
しばらく無言のまま睨みあっていたふたりだが、このままではらちがあかないとふんだ茅野が低姿勢になる。
顔のまえで両手をあわせ、引きつった笑みで皐月をおがむ。「なあなあ……」などと甘えたようにすがってみたり、なんとかして彼女のご機嫌をとろうとキャラを崩壊させていく。
そんなふたりのことをぼんやりと眺めていた私の脳裏に、ふと運動会での出来事がよみがえった。
もしかしたらあの出来事と、この茅野の問いには関係があるのではないだろうか。そっと皐月の腕をひきよせ、彼女の耳もとで思いをつたえる。
「……なあ、あんたさ。その運動会とやらに、あんたは行っちょったんな」
「は? 行ったけど、なんか問題でも? おまえに関係ねえやんか」
「へえ……、行ったんや? へえ…………」
「な、なんか……おまえ」
「関係ねえ? そうでな、三階から叫んだりしちょるはず……ねえもんな?」
「えっ、あ、あれは……。その、……ちょっと……理由が」
「叫んだんや? へえ、……そうなんや? その理由っちゅうやつ、聞かせてもらおうかな」
あからさまに動揺が隠せなくなった茅野に対して、皐月はしたり顔でにじりよった。
気まずそうに視線をそらし考えたあと、ふるふるっと首をちいさく横にふって「話せん」と言って彼女をみる。あれは侮辱的な行為だから、理由を話さなければ赦さないとたてつく。
ゆるすも赦さないも、本当は最初からたいして気にもとめていなかった出来事だった。こまったように眉尻をさげる茅野が、なんだか可哀想にもみえてくる。
あわせた手のひらを額の上まであげて「ほんっと、ごめん」と何度もあやまる彼に、おもわず私たちは吹きだしてしまった。
「もう、いいっちゃ。べつに本気で怒っちょるわけじゃねえし」
「……ほんとに?」
親に叱られた子供のような目差しで、ゆっくりと顔をあげる茅野。そんな彼をみて、私たちはふたたび吹きだす。
ほっとしたように手をさげた茅野は、そばにあった椅子をよせて腰をおろした。
あの小学校は母校であること、退屈だったので行っていたこと、そんな他愛のない話を淡々とはじめる。偶然みかけた私たちの姿に、見覚えはあったがはっきりと思い出せなかったと言った。
まじめに学校に来ないからだと嫌みをふくんだ皐月のことばに、彼は「それな!」とふざけたように笑ってみせる。
「あ、そうそう。俺、まだ名前おぼえちょらん。なんちゅう名前なん?」
「は? わたし? ……椎名やけど」
「へえ、椎名っていうんや? おまえってさ、彼氏とかおるん?」
「ちょっと! なんで朱里に、そんなこと訊くんな。あんたなんかに答えるわけねえじゃろ!」
「あっ、ちがっ……。俺じゃねえんで」
「……俺じゃ……ねえ?」
「……あ、」
とつぜん話を折るように噛みついた皐月の言葉に、茅野はとっさに否定をした。自分の否定のセリフにはっとした彼は、苦虫をかんだような顔をして下をむく。
どんなに退屈だったとしても、母校の運動会などにひとりでいくはずはない。やはりあの日あの三階には、彼以外にも誰かがいたのだと確信した。
誰といたのかという私たちの問いに、答えることはできないと彼はかたく口をとじる。そのくせに彼氏の有無だけは教えてくれ、それ以上は訊かないからとしつこく拝んでくる。
断固として口をひらかない私たちの態度にあきらめたのか、大きくため息をついて彼は立ちあがった。この場をはなれるまえに、最後の望みのように振りかえる。
そんな茅野にあっかんべをする皐月と、無表情でぷいっと顔をそむける私。入ってくるときとは真逆に、どっと肩をおとしたような雰囲気の彼は教室からでていった。
「……気にならん?」
「うん、……なんか、気になるでな」
「行ってみる?」
とつぜん現れて不可解な言動をしたこと、そしてあの異常なまでのしつこさと落胆ぶり。みょうに気になりはじめた私たちは、顔を見合せたあとすぐさま彼を追って教室をでる。
教室からでていった彼は、すぐに進路をみぎへとかえて中央階段へとむかった。階下へさがるものだと思っていた彼は、その階段をうえへとのぼりはじめた。
不思議におもった私たちは、ふたたび顔をみあわせる。この校舎は三階建てで、いま居るここは三階だ。うえには屋上への扉があるが、そこは施錠されており外へは出られないはずなのだ。
うまれて初めてではないかもしれないが、尾行というものの緊張感に手がつめたくなる。気づかれないように息をひそめて、彼の行方をみとどける。
彼が折り返し部分のおどり場をすぎるのを確認してから、スリッパの音をたてないように忍び足で階段のしたに移動した。
つないだ手にぎゅっと力をこめて、みつめあい大きくしかし静かに深呼吸をする。こくりとうなずきあった私たちは、ゆっくりと片足を一段目にのせた。
「名前……、わかったか?」
頭上に落ちつきはなった声がひびき、その音が一瞬で脳からつま先まで駆けおりた。私たちのなかの何かが働いてしまったのか、階段に片足を残したままかたまってしまう。
茅野以外のだれかがいる、それしか脳も理解ができない。それがいったい誰なのかそこで何をしているのか、そんなことにすら思考をめぐらせる余裕がなくなっていた。
そして茅野が自分の名前をくちにした瞬間、胸のあたりからわきあがる不安と恐怖。おもわず皐月の手をにぎったまま、私はその場から走ってにげた。
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