第1章

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29324079-1fab-4ba6-968c-56b85483ce08 第1章…10  茅野(かやの)たちにつづき敷居をまたごうとした瞬間、俺の身体はおおきく後ろにのけぞった。のどに食いこむシャツをつかみ、倒れそうになった身体をたてなおす。  そうなった理由は、振りかえらずともわかる。たてなおした俺の首に、うしろから北斗(ほくと)の腕が絡んできたのだ。抗おうにも、北斗のいきおいは衰えない。  ずるずると引きずられるように、台所まで連れていかれた。その先にある和室のふすまに、なんとか指先が触れたが掴むことは叶わない。勢いづいたまま、ふたりで和室になだれこんでしまった。  転がってしまった俺は畳に手をついて起きあがり、その場にあぐらをくんだ。おなじく起きあがった北斗は、ふすまを閉めてから俺のむかいに座りこむ。 「痛っ……てえな! 何なんか、兄貴」 「なんかじゃねかろうが! なんであいつが、ここにおんのか」 「なんなあいつって、朱里(あかり)のことな。そんなん、兄貴には関係ねえやん」 「関係ねえって……。おまえさぁ、あいつの名前とかしっちょんのか?」 「ばかにすんなの、名前くらいしっちょるわ。椎名よ、椎名朱里(しいなあかり)っちゅうんよ」 「……んで、なんも気づかんわけ?」  なぜ彼女がここに居るのか、彼女の名前をしっているのか。どうして北斗は、そんなに彼女にこだわるのだろうか。俺が彼女のなまえを告げると、北斗はおおきくため息をついた。  俺にあきれているか、もしくは哀れんでいるかのような視線。俺がなにに気づいていないのか、教えてくれる様子ではない。ただ俺が答えをみちびきだすのを、だまって待つつもりのようだ。  いったん北斗から視線をそらし、あたまのなかに朱里の顔を思いうかべる。もしかしたら忘れてしまった過去の記憶に、すでに朱里が存在していたのだろうか。  必死に過去の記憶をたぐりよせるが、やはり以前に知り合っていたというデータはでてこない。ふたたび北斗と向かい合って、さぐるように瞳をのぞきこむ。 「え、……椎名……でな?」 「おう、そうよ。……椎名よ」 「そうでな……、椎名朱里でな。……しいな…………しい、な……あき……ら?」 「そうよ! 椎名光羅(しいなあきら)よ! おまえな、なんでよりによって、あいつの妹つれこんじょんのか……」 「なんな、むりやり連れてきたわけじゃねえし。光羅兄(あきらにい)の妹やけんって、べつにそげえ問題じゃねえやん」 「……殴りこんでくるぞ」 「は? なんいいよん、ばかじゃねん」  北斗(ほくと)のことばに、俺はあきれた。少々やんちゃな男であることは、俺とて面識がないわけではないので知っている。しかし妹がどこでだれと遊ぼうが、兄がそんなことにまで立ち入るわけがない。  立ちあがろうとした俺のシャツを、北斗の手が素早くつかんだ。バランスをくずした俺は、ふたたび北斗ほくとのまえに座りこむ。 「知らんのか、あいつのこと!」 「知っちょるわ! 光羅兄には、なんかいも会ったことある!」 「ちがっ……、そうじゃねえで。……あいつのやりよんことよ!」 「なんか、それ。……意味わからんわ」 「俺もこの状況が、意味わからんわ。おまえな……知らんけん、そげえ呑気にしちょれるんやが」  大袈裟にさわぐ北斗にたいして、俺は鼻でわらい後ろ手をついて足をほうりだす。そんな俺の態度をみた北斗は、わかりやすく残念そうな顔をした。  北斗と光羅(あきら)が知り合ったのは、中学に入学してからだという。小学校のころから彼を知る者のはなしによれば、光羅のいる場所には必ずといってもいいほどに朱里(あかり)がいたらしい。  それは平日だけにとどまらず、休日や夜間の行事ごとでも例外ではなかったそうだ。着る服からヘアメイクまで光羅がてがけ、まるで自分の彼女のように連れ歩いていたという。  学校の休憩時間のちょっとした口喧嘩、放課後の通学路でのトラブル。朱里が泣くことがあれば光羅はかならず、その相手をつきとめるまで探しつづけていたらしい。  北斗(ほくと)はゆがんだ顔で話をしているが、俺は光羅(あきら)の妹への溺愛ぶりに好感をもった。いうならば、羨ましいとさえ思ってしまった。 「ふつうに妹おもいの、いい兄貴やん……。どっかの誰かとは、おおちがいやな」 「うるせえ、ばーか……。けどさ、ふつう見つかるまで探すとかありえるか? ガキのちょっとした口喧嘩ぞ?」 「いいやん、泣かすほうがわりぃんやし……仕返しとかするっちゅっても、知れちょろうし。っちゅうかさ、兄貴がなんをそげえ心配しちょんのかが、わからんのやけど」 「んん……、まあ……仲がいいっちゅうんは、そりゃいいんやけどの。なんちゅうか……それなりに、あれやん。いろいろと内容もかわってくるやんか」 「なん、……どういうことな」  言葉をにごすような北斗のくちぶりに、俺は素直に疑問をぶつける。足をのばしてくつろいでいる俺とは裏腹に、北斗は真剣な面もちになった。  まず話はじめたのは、光羅の趣味のはなしだった。彼が音楽をやっていることが、今回の話とどんな関係があるのだろうか。  どうやらそれは光羅の新聞配達の話につながるための、ちょっとした前置きのようなものだったみたいだ。しかし俺からしてみれば、光羅のバイトの話も意味がわからない。  いったいどこからが本題なのだろうかと思っていると、やっと朱里(あかり)の名前があがってきた。どうやら光羅の新聞配達に、朱里が同行したときのはなしらしい。  いつもより遅めの配達で、ふたりは手分けして新聞を配ることにしたらしい。それはほんのすこしの時間だったそうだが、そのみじかい時間に出来事があったというのだ。 「これの、ほんとつい最近のはなしなんよ。朱里に、朝っぱらから声かけたやつがおんのよ」 「なんちゅうて?」 「……さあ? そこまでは知らんのやけど、まあナンパ系やねんか」 「え、……朝っぱらから?」 「椎名(しいな)がいうには、朱里(あかり)が兄貴の名前をだしたとたんに、謝ってくちどめして逃げたらしいんよの。……口止めがまずかったわの、下心まるだしやん」 「ああ……ね。……で?」  逃げていく男の姿をとらえていた光羅だが、その場では特になにもしなかったという。そのまま朱里と合流して、家にかえり彼女を学校へとおくりだす。そして自分は登校まえの男のもとへ、ひとりで向かっていたらしい。  ほかの仲間からの情報によると、相手の男はかなりの怪我をしているそうだ。しかし病院への搬送まではいかず、寸でのところでとどまっているというのだ。  北斗(ほくと)がいうには、光羅(あきら)は自分の内申の問題よりも、朱里(あかり)のメンタルへの配慮だろうと。どちらにせよ大事にならないように、しっかりと止めるべきところでとめるのだという。 「やっば……。光羅兄って、やべえかっこいいやん」 「おまえ、ばかなんか。声かけただけで、それなんぞ? 家につれこんだおまえが、どうなるか……」 「え、……くる……かやぁ?」 「くるわ! くるし、おまえ殺されるわ! 俺の弟やけんとか、そんなん椎名(しいな)には絶対に関係ねえと思うわ」  俺たちのような単細胞がか関わっていい相手ではないと、北斗(ほくと)は眉間に皺をよせる。そしてあらためて、ここに朱里(あかり)がいる理由を問うてきた。  どこから話していいのかわからなかった俺は、小学校の運動会の出会いから全てをはなす。最後までだまってはなしを聞いていた北斗が、おおきくため息をついてあたまを抱えこんだ。 「……とりあえず、今日ここに来たことは朱里に口止めせえよ。そんで、あれや……付き合うっちゅう話も、なかったことにせなぁ」 「え、……やめらないけんの?」 「あたりまえやん、おまえ……ほんとに殺されるぞ」 「べつに、光羅兄に……半殺しされてもいいけん」 「は? ……おまえなぁ」  あきれた顔で北斗が俺をみた。北斗が言っていることも、心配をしてくれていることもよくわかる。しかし嫌いではないと微笑んでくれた、朱里のことをなかったことにしたくない。  交際がばれてしまえば殴られて、別れさせられてしまう。その結末がわかっていても、はじまるまえから簡単に諦めたくなかった。長くはないかもしれない、それでも続けられるとこまで続けてみたい。  しつこく俺を説得してくる北斗に、断固として首を縦にふらない。はがゆそうに向きあっていた北斗も、しまいには何も喋らなくなってしまった。  しばらく無言のまま見つめ合っていた北斗が、おおきく鼻から息をすいこんだ。声になりそうな勢いで、はげしく口から息をはく。そしてゆっくりと立ちあがりながら、「知らんけんの……、気いつけれよ」といって俺のあたまを平手でたたいた。
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