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第1章…12
北斗から解放されて、俺はじぶんの部屋へと戻った。ふすまを引きあけた瞬間、さんにんが一斉にこちらを見た。それと同時に、ぴたりと会話もやむ。茅野に問うても、たいした話ではないとにごされる。
はなしの続きをしないということで、だいたいの想像はつく。朱里は、俺と北斗の関係に気づいていなかったのだ。まさかこんなところで彼に会うなどと思いもせず、驚いているにちがいない。
茅野から兄貴のようじは何だったのかと訊かれ、朱里へのくちどめのチャンスだと脳裏によぎった。しかし俺のなかでちいさな不安がうまれてしまう。くちどめの言葉は、彼女に不信感を抱かせはしないだろうか。
北斗のことばと、俺の不安とが頭のなかでぐちゃぐちゃになっていく。落ちつかなくなった俺は、ついいつもの癖で煙草に火をつけた。肺いっぱいに吸いこんだ煙を、ゆっくりと吐きだし少しだけ落ちつく。
ふと視線をかんじて朱里をみると、彼女は無言で俺の顔をみつめていた。なにかを言いたそうな瞳は、なにを言うわけでもなくじっと動かない。右手の煙草から、白い筋が目の前にたちのぼった。
「……あっ、ごめん! たばこやろ? 煙……くせえよな」
「けむ……? あ、いや違うんで! 兄ちゃんたちで慣れちょんけ、ぜんぜん気にならんので」
「……わっりい、いつもの癖でから……つい」
「いや、ほんと大丈夫なんで。まじでにおいとか、好かんことねえけん」
無駄に開いてある掃きだしの窓からは、すこしの風すら入ってきてはいなかった。それどころか雨あがりの濡れたベランダのせいで、部屋のなかはじめじめと湿気におおわれている。
俺たちにしてみれば、これはいつものことだ。しかしこの湿気では煙はいつもより重く、慣れない彼女たちにすれば髪につく臭いも不快だろう。
いそいでたばこを灰皿におしつけ、三段ボックスから雑誌をとった。大丈夫だ、平気だとなんども彼女はくちにする。だが俺はバカみたいに、煙を窓のそとに追いだそうとあおぎつづけた。
もう自分でも何をやっているのか、わからなくなってくる。彼女の言葉が本心なのかどうか、そんなことも考える余裕はなくなっていた。
あおいでもあおいでも無くならない煙のむこうに、困ったような表情をしている朱里がみえた。彼女にそんな顔をさせてしまった自分が、なんだか情けなく感じてくる。
「……なんか、ごめんな」
「ううん、いいけど……。なあ、ほんとに大丈夫やけんな。慣れちょんし、べつに臭いも好かんことねえけんな」
「うん……」
「……がまんせんでいいんで。いっつも兄ちゃんたちが吸いよんとこに、おるんやけんな」
「んん……、ありがと。……我慢とかじゃ、ねえんやけど……なんか」
朱里の困ったような表情は、もとに戻りそうな様子ではない。彼女のよこにいる七瀬の視線は、俺と朱里のあいだを行ったり来たりしていた。
よこから茅野の手がのびてきて、俺の左腕をかるくついた。すこしだけ顔をひだりにむけ、彼のすがたを視界にいれる。茅野は視線を俺にのこしたまま、顎で煙草の方をさした。
おそらく彼は、煙草を吸えと言っているのだろう。だがしかし正直なところ、あまり気がすすまない。いや気がすすまないというよりかは、いまこの状況でそんな欲求が湧いてこないのだ。
しぶるように下をむく俺にたいして、茅野がちいさく咳ばらいをした。そしていちど俺と視線をあわせてから、朱里のほうに瞳だけを移動させる。
彼女は壁のまえで膝を抱えこみ、背をまるめて小さくなっていた。気まずそうな瞳は行き場をなくしたように、俺のいない空間をさまよっている。
「……なあ。……光羅兄と、兄妹やったんやな」
「えっ、……あ、うん」
「……ぜんぜん、……気がつかんやった」
「あ……、わたしも……気がつかんやった。……北斗兄に弟おるとか、知らんやった」
「ん、あ……ああ……。そっか……」
彼女の気まずそうな返答に、俺の言葉までたどたどしくなる。ふたたび茅野に腕をつつかれ、しかたなく煙草に手をのばす。俺の右手には、朱里の視線がそそがれていた。
吸ってもいいかという俺の質問に、彼女はほっとしたようにうなづく。そして俺が火をつけるのを見とどけると、なぜかうれしそうに微笑んだ。
俺たちお互いの名字は、このあたりの地域ではめずらしい。それなのにどちらも気づけなかったと、ふたりで苦笑いをする。突然すぎた出会いに、深くをかんがえる余裕などなかった。それをあらためて実感した。
「うちの兄貴のこと、……知っちょたんやな」
「うん、兄ちゃんの友達とか、いっつも家に遊びにきちょるけんな。……北斗兄もたまに遊びにくるんで」
「えっ、久我の兄ちゃんって、朱里の家によくくるん?」
「うん、そうで。北斗兄って、おもしれえし……ああ見えて優しいんで」
朱里と横ならびになっていた七瀬が、壁から背中をはなして朱里のほうへと身体ごとむける。そんな彼女の興味津々なようすに、朱里の表情もいちだんと明るくなった。
朱里には見せているという、北斗の意外ないちめん。俺たちのまえでは絶対にみせないような姿に、茅野までもが興味をいだいてしまったようだ。
朱里のくちから北斗の名がでるたびに、なんだかみぞおちのあたりがもやもやする。もうやめてくれと思う俺のきもちを無視して、ふたりは朱里から話を引きだそうとしていた。
意外だと、素直におどろきの言葉をくちにする茅野。たしかにそうだ、意外な真実だ。だがしかし北斗のそんないちめんなんて、俺にとってはどうでもいい。
「なぁなぁ、光羅兄ってさ……ふだんは、どんなひとなん?」
「どんなひと? ……ふつう、やけど。……え、どういうことかや」
「いやな、なんか……そうとう仲がいいとか聞いたけん。どんなんなんかな……とおもって」
「兄ちゃんは、優しいし……仲はいいけど。え、……でも、普通くらいなんやねんかや」
「その……普通っちゅんが、なんか俺ら兄弟の場合……ようわからんのやけど」
ふしぎそうな顔をして、朱里が小首をかしげた。いつも一緒にいると聞いたと話すと、彼女はとうぜんのような顔をして、家にはいつも光羅しか居なかったからと答えた。
両親は仕事がいそがしく、光羅のつくるカップ麺があたりまえの食事だったという。自分だけを家に残すわけにはいかないから、いつも連れ歩いてくれたのだという。
光羅のともだちが優しいひとばかりで、いつも気にしていっしょに遊んでくれたのだと。自分にはたくさんの兄がいるみたいで、とても楽しかったと笑った。
よこから七瀬がくちをはさみ、花火大会のふたりの話になった。ともだちからの誘いを断った光羅は、朱里を自分好みに着飾らせ連れてあるいたのだという。
本人は意識はしていないようだが、光羅との思い出を話す彼女の顔はとても幸せそうにみえる。ふたりが本当に仲良しで、たがいを大切に思っているのだと感じとれた。
「なぁなぁ、思ったんやけどさ。朱里にさぁ、彼氏ができたとか知ったらさ、……兄ちゃん、やばくね?」
「は? なに、やばくねって。……意味わからんし」
「え、え、朱里ってさ……まさか、自覚しちょらんとか?」
「……なんが?」
「うわぁ……、やば。……兄ちゃん、めっちゃ朱里のこと好きでな。……絶対にやべえって、いかるって」
まさに代弁者となった七瀬のことばに、俺は心のなかでおおきくうなづいた。なんの解決になるわけでもない代弁ではあるが、もやもやとした気持ちをすこしだけ吐きだせた気がした。
大袈裟だと笑う朱里の腕に、にやけた顔の七瀬が絡みついた。悪い笑みを俺にむけながら、彼女は「ふたりは恋人みたいに仲がいいから」といった。
ついさっき俺の代弁をした彼女は、一瞬で俺の敵にまわったのだ。先日の運動会も自分が同行だという確信なくしては、朱里の外出はなかったのだとほくそえむ。まるで自分のおかげで知り合えたのだと、恩をきせるような表情だ。
しかしそれが事実だとするならば、俺はなにもいいかえせない。北斗のはなしを聞いたいま、七瀬の発言も信憑性を増してくる。したり顔の七瀬に、余裕のふりをして鼻でわらう仕草をかえした。
「皐月、それは大袈裟すぎるっちゃ」
「そんなことねえって……、まじで兄ちゃん……いかるっちゃ」
「まあ、彼氏とか……いままで、ねえけん……。わからんけど、……じゃけど恥ずかしいけん自分から言えんし」
「いやいや、言わんほうがいいと思うわ……まじで。まあ、どうせいつかばれるやろうけど、あれやな久我……覚悟しちょかなやんな。……かわいそっ」
終始ふくみ笑いで、悪いかおの七瀬のことば。どんなに黒いはらわたなのだろうかと、根性をうたがってしまう。面白がってばか笑いをしている茅野も、また例外ではないと感じた。
ここまでの会話のなかに、北斗がいっていた事件はでてはこなかった。やはり北斗がいうように、光羅はことを伏せているのだろう。
きっとふたりの交際が光羅の耳にとどけば、朱里の知らないところで終止符をむかえる。どんなかたちでうたれるのか、そのとき彼女はどうなるのか。
開始早々、おおきな不安にのみこまれる。しかしその不安よりもはげしく湧きおこる、朱里と過ごしてみたいという感情はおさめることはできそうにない。
複雑なきもちを悟られないよう、目をほそめて三人のはしゃぐ様子をみていた。なにも知らない朱里が、照れくさそうに俺に微笑みかけてきた。
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