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第1章…13
うっとうしかった梅雨があけ、季節は夏へと移り変わっていた。四季のなかで、もっともうれしい夏。理由は簡単、夏休みという長い自由時間があるからだ。
部活動などをしている生徒にとっては、もっともいやな時期なのかもしれない。朝から晩まで練習をさせられ、きっと遊ぶ時間なんてないのだろう。
もちろん私にだって、部活の勧誘がなかったわけではない。そこそこの身長もあるので、やらないかとお声のかかることは少しはあった。
光羅からも、多少の運動はひつようだと言われたこともあった。しかし気がすすまなかった私は、体育の授業での失敗談を理由にそれを回避した。
光羅はじぶんの意思でバスケットをしていたが、仕事にいそがしいという母親たちは無関心だった。よけいな費用、よけいな労力を好まない母親。自分たちの出費が増えるようなことを、子供にすすめるはずもない。
『チリチリチリ……チリンチリン……』
小学生レベルの、たのしい夏休みの開始ベル。迎えの自転車が到着したぞと、皐月が鳴らすベルの音だ。階下で仕事をしている母に、睨まれながら外にとびだす。
母の一声よりもはやく、皐月のうしろに跳びのった。どこへ行こうか、などと相談する必要はない。目的地はただひとつ、あとはいかに早く母のまえから逃げさるか。
ふるい家の建ちならぶ住宅地をひたはしり、市営の団地がみえてきた。建物がみえただけで、そわそわとした気持ちになってしまう。団地のしたに近づくと、私は自転車のうしろから跳びおりる。
急にかるくなった自転車は、「うわあ!」という皐月の声とともにふらついた。駐輪場などおかまいなしに、雑に自転車をとめ階段をかけあがる。
「……鍵、開いとるで!」
「はーい、おじゃましまーす!」
「いつも開けとるけん、勝手にはいれって言ったやん」
「そうやけど、なんか……ひとんちやけん、あれやんか」
「そんな、気いつかうような家じゃねえやん」
なかからの反応をうけて扉をあけると、その向こうに苦笑いの隼斗が立っていた。いちいち玄関までいくのが面倒だと、この家はつねに鍵をあけているらしい。
毎回とびらのまえで考えはするのだが、やはり抵抗がありチャイムを押してしまうのだ。そんなことを隼斗に伝えると、彼は私のことを真面目だとわらう。
部屋にはいると、すでに茅野がきていた。例のごとく、なんの遠慮もなくくつろぐすがた。ここは誰もいなくても勝手にあがっていい家なんだよなと、ひやかすような目つきで隼斗に言った。
「おーい、隼斗! なんか飲むもんもってきてくれ」
「はあん? なんかそれ……うるせえ、自分でとれの!」
「なんか、お前! 隼斗のくせに、兄貴にたてつくとかクソ生意気なん……あ、朱里やん。なんか、来ちょんなら声かけれの」
「なんで朱里が、兄貴に声かけらんといけんのか」
「うるっせえ、ばーか」
おくの部屋にいた北斗は、台所をとおりぬけ隼斗の部屋までやってきた。いまにも掴みかかるような勢いでふすまを開けたが、私たちに気づいたとたんに優しい顔になる。
出ていけという隼斗の声を無視して、北斗は部屋のおくへと腰をおろした。ちかくにあった雑誌を隼斗になげつけ、自分と私たちの飲みものも持ってこいといいつける。
自分でいけと言い返し、隼斗は雑誌をなげかえした。投げかえされた雑誌をつかみ、北斗はそれを高くふりあげる。
「ああ、もう! わかったっちゃ……めんどくせえな……」
「しゃあしい、……はよいけ」
「……んん? ……兄貴、冷蔵庫……ビールしかねえみたいやで」
「はあ? ……おまえんかたの冷蔵庫は、なんもつかえんのやの。……ちゃんと見たんか? なんかあろうが」
冷蔵庫をあけたりしめたり、引き出しをひいたりおしたり。おそらく野菜室や冷凍までも、確認しているのだろうという音がきこえていた。なにもないという隼斗の声に、北斗は舌打ちをしてたちあがる。
開閉の音がとまり、台所が静かになった。あまり関心がなさそうだった茅野が、ふと顔をあげたちあがる。彼が部屋からでようとしたそのとき、台所から缶をあける音がした。
「うわ、ばかやねえん! やめれっ……すんなっちゃ」
隼斗のおおきな声に、私と皐月は秒でたちあがった。炭酸の吹きでるおとに、冷たいと叫ぶ声がかさなる。がたがたと物にぶつかる音が、徐々にはげしくなっていく。
おどろきが先か、好奇心がさきか。私たちの足は、部屋をとびだし台所へと向かっていた。台所の扉のまえで、茅野がぴたりと足をとめる。
これ以上は行くなといったように、茅野は腕をのばし入り口をふさいだ。彼の腕をおしのけるように、中のようすを覗いて愕然とした。
開きっぱなしの冷蔵庫のまえで、隼斗があたまからビールをかぶっている。もちろん、かけているのは北斗だ。彼はわるい顔で笑いながら、楽しそうに缶ビールをふりまわしている。
「久我、なんしよん……」
「茅野! 朱里たち、こっちにこさせんなよ」
「いや、……もう来ちょんのやけど」
「……まじか、入らせんな! こいつ……ばかやけん、なんも考えんけん」
「入れっていわれても、……はいらんは……なぁ」
よこに広げていた腕をおろしながら、茅野は苦笑いで私たちをみた。おなじように苦笑いをかえし、入るわけがないとうなづいてみせる。いまそこに足を踏み入れようものなら、きっと私たちはあのビールを浴びることになるだろう。
決してとばっちりを受けないように、いりぐちから顔だけを出して中のようすを見物していた。きれいに並んで冷やされていたビールは、すべて台所の床にまき散らされてしまった。
これでやっと静かになるのだと思ったつぎの瞬間、兄弟の手はマヨネーズやケチャップへと伸びていた。とびだす赤や黄色に、なんとも言えない臭いがついてくる。
「な、なあ……茅野……、この人たちっていつもこんなことしよんの?」
「いや、ここまでは……さすがに……なぁ」
「やばくね? おばちゃんに怒られるやろ、これ」
冷静な自分が、そうくちにしていた。しかし楽しそうなふたりを見ていると、そんなこともどうでもよくなってしまう。チューブから出つくした調味料が、ふたりの足場をあやうくさせる。案の定、あしを取られた隼斗たちは、すべりこけながらもバトルをつづける。
豆腐だろうがなんだろうが、そこにある物はすべて戦いの道具になった。そして卵まで使いはたしてしまい空になった冷蔵庫は、開けっぱなしの警告ブザーを虚しくひびかせる。
「ちょっ! それはまじでやめとけって。あぶねえっちゃ!」
茅野がくちをはさむが、興奮状態のふたりには届かない。さすがにここは危険だからと、私たちは部屋に戻るようにと彼がいった。
隼斗の手に握られていたのは、虫をころすための殺虫剤だった。そして北斗は肩で息をしながら、右手にガスバーナーを握りしめていた。
バーナーの音を背にききながら、私と皐月は部屋にもどる。茅野の必死なさけびは、しばらくつづいていた。
「朱里、そろそろ送っていくけん」
「え、……もう?」
「時間ねえやん、いそがんと」
「まだ、みんなおるやん。なんでいつも私だけ先に帰らないけんの……たまにはいいやん」
シャワーを済ませた隼斗が、ぬれた頭のまま部屋へと戻ってきた。なかなか立ちあがろうとしない私の腕をつかみ、なかば強引にひきあげる。
ごねている私の言葉にかまわず、淡々と帰りじたくは進められていく。その場に座ったままの皐月は、気まずそうな表情で私に手をふった。
玄関で待つ隼斗に急かされ、しぶしぶと靴をはき外にでる。いやいやついて行く私の足取りに、隼斗は振りかえり困ったかおをした。
「朱里のこと、心配しちょるひとがおるやん」
「そうやけど……、少しくらい門限すぎたって兄ちゃんは怒らんと思うけん」
「……光羅兄だけじゃねえやろ。ちゃんと時間はまもらんと……な?」
納得していない私の表情をみて、隼斗はくすっと笑って右手をだした。その右手の意味はわかっていたが、私の左手は素直には前にでなかった。
いっぽ私に歩み寄り、強引に手をつなぐ。歩きはじめた彼の背中をみて、同じ歳なのにほんの少しだけ年上っぽく感じてしまった。
家からいちばん近いまがり角で、彼は私の手をはなす。名残惜しいような視線で目をあわして、「またな」と口角をあげていう。こくりとうなづいて小さく手をふってから、私は自宅の玄関へとむかう。
玄関のまえにたどりつき、そのまがり角をみると隼斗は手をふり帰っていく。いつもこの瞬間は胸がしめつけられ、泣きたい気持ちになってしまう。追いかけたい気持ちをぐっとこらえて、現実にかえる扉をひらいた。
「あんた! 何時やとおもっちょんのな! どこで誰となにしよったんか言ってみなさい!」
いまにも掴みかかってきそうな勢いで、母親が玄関へとやってきた。ちらちらと時計を確認しようと、私の瞳はおよいだ。たしかに門限を、ほんのすこしだけ過ぎていた。
「皐月と……」
「皐月ちゃんと、ずっと一緒におったんやな! 皐月ちゃんも家に帰ったんやな! 電話するで、電話して確認するで! どこで遊びよったか皐月ちゃんにきくで!」
「おかあ……なんも、そこまでせんでもよかろうが」
「そうやけど、このこが素直にいわんけん!」
「そげえまくし立てりゃあ、朱里だって何もいえんなるわ」
それでなくても目力の強い母親が、限界まで見開いて迫ってくるのだ。光羅のいうとおり、その迫力で言葉なんて無くしてしまう。
今日のように兄が仲裁に入らなければ、母の怒りはますます高まり手か物がとんできはじめる。もっと幼いころは、業務用の冷凍室によく閉じ込められたりもしたものだ。それもこれも、私がちゃんと物事を言わないからだと母はいう。
そして叩かれながら、私はいつも思うのだ。妹にはこんなことしないくせに、……と。いちどだけ、もっと悲観的な考えをよぎらせた。私はここの家の本当の子供ではないんじゃないか、……と。
「あれや、しばらく朱里んこと放っちょってくれんかや」
「放っちょったら、すきかってに遊びほうけるに決まっちょんやねえな」
「おかあが、そげえしよったら……家にかえらんなるで」
私と母のあいだにはいり、私を背にかくすようにして光羅がいいはなつ。母は眉間をくいっと寄せて、兄のうしろにいる私のことをにらんだ。
決して納得をしている顔ではないが、光羅のことばに反論はしない。自分が責任をもってみておくから、しばらく任せてくれと光羅がいった。
おさまらない苛立ちを呑み込むように、母はわざとらしく息をはく。それを承諾の合図だと受け止めたのか、光羅は私の手をとった。
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