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第2章…05
上履きのスリッパのまま飛び出した、正面玄関のまえ。立ちつくし見つめる、正門のその向こう側。そこにはすでにタクシーの姿などはない。
職員室の窓があき、そこで何をしていると声がかかった。教室に戻れと手ばらいする彼に対して、特になんの感情もいだけない。
そのまま無言で背をむけ、校舎のなかへともどっていく。頭のなかで繰り返される、「ばいばい」という言葉。階段をのぼるその足は、鉛でもついているかのように重かった。
三階までのぼったところで、茅野の姿をとらえた。屋上へとつづく階段の一段目、そこに彼はすわっていた。
「……茅野。そこで、……なんしよん」
「椎名……。おまえんこと、待っちょった」
「なんでな」
「渡すもんがあるけん。……屋上、きてくれん」
まえを歩く茅野の足取りも、私とおなじほど重くかんじられる。彼は何かをしっているのだろうか、渡すものとはなんだろうか。
私がおどり場あたりに到着したとき、彼はすでに最上階についていた。つくえの横からなにかを手にとり、それを持って階段をおりてくる。
茅野の右手にあるのは、大きな紙袋だった。その場で立ちどまり彼をまっていると、私のまえにその紙袋をさしだした。
「……なん、これ」
「久我から……」
「は? 隼斗なら……さっき……。なんであんたから渡すんな」
「……俺が、預かっちょったけん」
なかなか受け取ろうとしない私の右手に、紙袋を強引ににぎらせる。茅野から目を逸らさない私に、なかを見ろと言わんばかりに顎をつきだした。
紙袋のなかみより、目を合わさない茅野のほうが気になる。そうだ、このタイミングで茅野がここに来ることも、彼が預かっていたという事実も不自然すぎる。
「……いいけん、見てん。なにがいいかわからんっちゅって、楽しそうに買い漁りよったんじゃけん」
「買い漁る……。あの日の……こと? 一緒に買い物して、なんであんたがこれ持っとるん。なんで帰らんかったん。あんたもずっと一緒におったん?」
「いや……、その……。俺は預かっただけやけん」
「じゃけん、預かったのはわかったけん。……なんで帰らんかったんかって訊きよんのやん」
「いや、……ほんとうに俺は……なんも」
知らないとしらをきり通す茅野に、知っているところまででいいと懇願した。身体はこちらを向いているのに、彼の視線はずっと空をみつめている。
私は質問をかえて、なぜ買い物にいったのかと訊ねた。それに対して茅野は、隼斗が贈り物をしたいと言いだしたとこたえる。
どこに買い物にいったのかと問うと、街へいき適当に店にはいったとこたえた。この紙袋のなかみは、すべてそこで買ったものだとはなす。
「……それなら、そのまま帰ってくればよかったやん。まだ他のとこ行ったんじゃねえんな」
「いや、ほかには行っちょらんので。店を出たら、前の仲間……あっ……」
「……なか、ま? シンナー遊び……の?」
「あ、いや……。その……」
「……そいつらと、……遊びにいったんな」
「違うよ! 隼斗は、せんってはっきり言ったんで!」
「じゃあ、なんで帰ってこんかったんな!」
茅野は渋い顔をして、あたまを激しくかいた。そしてその場で袋を渡されて、帰れといわれたという。その後のことは本当にしらないと、私の目をまっすぐにみる。
きっと茅野は、本当にそこまでしか知らないのだと感じた。そのあと隼斗になにがあったのだろうか、その仲間となにかやってしまったのだろうか。
数日間も帰れない状況とは、その間はどこに居たのだろうか。ずっとその連中と、行動を共にしていたのだろうか。もしそうだとしてそれが光羅の耳にはいったら、きっと兄は彼をゆるさない。
「……なんで、おばちゃんと今日きたん」
「いや、そこは……本当に俺は詳しくはしらんけん」
茅野の瞳を、じっと見据えてみた。彼は視線をそらすことなく、ふるふると首をよこにふる。嘘ではないのかもしれない、と感じた。
紙袋をふたたび茅野の手にもどし、わたしは彼に背をむける。「椎名?」と不思議がる彼になにも言わず、わたしは階段をおりていった。
そのまま職員室のまえに戻った私は、その扉を勢いよくあける。驚いたようにこちらを見ている教員のなかに、矢野の姿をみつけた。
戻りなさいと前に立ちふさがる教員を、腕で払いのけながら矢野のもとをめざした。わたしと視線があっていることで、彼も自分に用事なのだと悟っているようだ。
「矢野先生! さっき、隼斗が来ちょったよな!」
「え、あ、ああ……。えっと、君は……」
「一年八組の椎名朱里です。隼斗は何しにきたんですか!」
「あ、ああ……椎名。えっと……なんで、そんな質問を」
「知りたいからです」
「……いや、知りたいと言われても。……久我個人のことじゃけん」
「彼女でも? 彼女でもきけんの?」
もともと痩せ細った体形の体育教師である矢野は、疲れたような表情で椅子にこしかける。まるでわたしの存在を忘れたかのように、机にひじをつき頭をかかえた。
彼がなにを思い考えているのか、わたしには知るよしもない。その間もわたしはずっと、どんな話だったのか隼斗になにがあったのかと問いつづけた。
「椎名……、あのな。あいつの事が心配なんは、……わかる。じゃけんどの、個人の家庭のことは部外者には……いくら彼女やっても先生のくちからは……」
「……部外者」
そのひとことに、はげしく突き放された気がした。わかっている、家族ではないあかの他人だと。それでも心配な気持ちは、家族となんら変わりはないのに。
鼻のおくがつーんと痛くなり、わたしは息をとめた。息を吐けばそれといっしょに、涙があふれ出てしまうと思ったからだ。しかし、それと呼吸はべつものだった。
いっきに目頭は熱くなり、ぼろぼろと涙をあふれさせてしまう。それをみた矢野は困ったような顔で、ひきだしからティッシュをとりだし差しだす。
「し、椎名……ちょっと、向こ……ほら、ちょっと向こうの部屋に……」
ほかの教員たちの視線をあつめてしまい、そのことに矢野は慌てて立ちあがる。わたしの背中をかるく押すように、職員室の扉へと誘いざなった。
その扉のよこにある、応接室への扉がひらかれる。ふたりそこへ入ると矢野は振りかえり、いそいそとその扉をしめた。
そんなに泣くなとなだめてくるが、泣こうと思って泣いているのではない。軽くうなづきながら、わたしは何枚ものティッシュを使った。
向かい合って座った応接室のソファー。ときおり深いため息をつきながら、矢野はわたしが泣きやむのを待つ気のようだ。
「久我……なんやけどの……」
わたしの涙が落ちついたのを見計らうように、矢野がぽつりと声をあげる。
「しばらく……の、学校には、来れんことに……」
「……もともと、来てねえやん」
「いや、まあ……そうなんやけど。なんていうかの……そういう事じゃねえで。児童自立支援施設……って、わかるかの」
「じどう、……じり、つ……」
聞き馴染みのないことばに、復唱がままならない。知らなくて当然だと言わんばかりの表情で、彼は更生を促すための施設だといった。
そして続けて「そこに入ることになったから」といって、気まずそうにわたしから視線をそらした。彼がくちにした、入るという言葉がひっかかる。
そこまで話してしまったのだ、彼からすれば話ついでだろう。それがどのような目的の施設であるか、そしてここからどれくらいの距離の場所にあるのか話し始めた。
くわしい所在地を教えてくれというわたしに、それはお前には教えるわけにはいかないという。そもそも知ったところで訪ねていけたとしても、彼にあうことは叶わないといった。
「……会えん、のや」
「うん、家族以外は……な」
「……どのくらいで、帰ってくる?」
「どのくらい……、か。そうやの、本人次第なんじゃけんど……二年、いや……一年。先生も、……わからん」
家族以外は面会の叶わないという場所で、短くても一年は暮らすことになったという事実に呆然とした。矢野はまだ何か話しているようだが、わたしの頭には入ってこない。
ここから六十キロほど離れた土地だといわれても、その六十キロがどの程度の距離なのかすら理解にくるしむ。ただ理解できたことといえば、もう会えないのだということ。
一年間、彼のことを信じて待ってやれという矢野の言葉も、ありきたりの取ってつけたセリフに感じる。何を根拠に、信じるということばが出てきたのだろうか。
そうだ隼斗は最後に、ばいばいとわたしに告げたのだ。そうそれはまさしく、もう会えないという別れのことば。きっと彼も、二度と会うことはないと覚悟したのだ。
ゆっくりと立ちあがったわたしに、矢野は心配そうに「大丈夫か」といった。なにが大丈夫なのかわからないけれど、わたしは彼にあたまをさげ、応接室をあとにする。
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