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第2章…07
暑かった夏も過ぎ去ってしまい、肌寒いと感じることがおおい季節になった。天窓からさしこむ陽ざしが、ほどよい暖かさをつくりだし心地いい。
茅野が隼斗のためにみつけたというこの場所は、いまでは平日のわたしの居場所になっている。それは時にはひとり時にはふたり、またときには三人の居場所となっていた。
隼斗は数回しかここへは来られなかったが、いまでもしっかりと彼はここにいる。ひとりでいると切なくなってしまうこともあるが、それでも大切なわたしの居場所なのだ。
それにしても茅野のやつ、めったに登校などしていなかったくせに、よくこんな場所をみつけたものだ。さすがさぼり隊は違うな、と感心する。
階下が騒がしくなってきたことで、午前の授業がおわったのだと気づく。ぱたぱたと軽やかな足おとが、ここへの階段を駆けあがってくる。
このかわいい足音は、皐月のものに違いない。そろそろだと思ったとき、やはりおどり場に現れたのは彼女だった。お弁当をかかげ、にかっと八重歯をみせ笑う。
「朱里-、弁当くおうぜぇ。腹へったぁ」
「いいよな……。あんたんとこの弁当は、旨そうやけん」
「えーっ、朱里のおばちゃんも、忙しいって言いながらちゃんと毎日つくってくれよんじゃん」
「……つくると詰めるは、ちがうと思うけんどな」
「やばっ。そうとう、根にもっちょんやな」
ちょこんと最上段に尻をつけた皐月は、ひざのうえで弁当をあけた。やはり今日の弁当も、しっかりと色彩ゆたかで美味しそうだ。
わたしは鞄から弁当をとりだし、おそるおそる蓋をすかして中をみる。手のこんだものなど入ってはいないが、これなら人並みだと安堵する。
そんなわたしの一連をみていた皐月が、怯えすぎだと笑いはじめた。こうなってしまったのは、そうあの日の母の弁当のせいなのだ。
わたしの弁当は、まずいろどりなど考えてつくられてはいない。店内にあるものをそのまま弁当箱へ、それが忙しい母の弁当スタイルだった。
それはそれで、慣れていたのでよかった。ただ、あの日の弁当だけは許せなかった。思いきりあけた弁当箱のなかみ、そこにあったのは白米だけだった。
別のちいさなタッパーが気になる。おかずを別にいれたのか、めずらしいこともあるものだ。開けてびっくりした。それは昨晩の残りの、カレーだったのだ。
許せなかった、いや許せないというよりも恥ずかしかった。それはわたしだけの事ではなかった。光羅もその日、わたしと同じ恥ずかしさを味わっていたのだ。
とうぜん、わたしは母に文句などいえない。しかし光羅はちがう。だが母親にぶちぎれた兄は、母親の逆切れに見舞われた。
「じゃけんど、朱里のおばちゃん、さすがって感じよな」
「……さすがじゃねえし。詰めていいもんと、わりいもんがあるやんな」
「兄ちゃんも、弁当あけたときびびったやろうな。……なあ、なんか下が騒がしくね?」
わたしの悲惨な思い出ばなしに笑っていた皐月が、弁当をよこに置き立ちあがる。手すりを掴んで階下をながめ、首をかしげて階段をおりはじめた。
階下のことなど放っておけばいいのに、と思いながら食事をすすめる。すこしして彼女が、慌てたように階段を駆けあがってきた。
「どしたんな」
「ちょ、ちょっと……。なんか知らんけど、三年の男が朱里んこと、探しよるみたいやで!」
「三年? ……誰やろ、っちゅうかなんやろ」
「し、知らんけど……どうする……」
どうするかと訊かれても、どうすればいいのかわからない。探される心当たりなどなく、男子だときけば尚のこと見当もつかない。
隠れるように最上階まで駆けてきた皐月が、だれもあとをつけて来ていないか確認をした。手すりから顔をだした、その行動が裏目となる。
「おった! 先輩、椎名ここにいます!」
顔をのぞかせた皐月に気づいた生徒が、階段のおどり場まであがってきたのだ。しくじったと言わんばかりに、皐月の顔がゆがむ。
逃げ場のないわたしたちは、ただその場でことの成り行きをまつしかない。おどり場でこちらにひとさし指をむけている生徒のまえに、その三年の男子という人物があらわれた。
わたしの居場所を指さす生徒は、その人物にあたまをさげ走りさる。振りかえったその人物は、悪びれなく手招きのようなしぐさをした。
視線はあっている、合ってはいるがわたしではないかもしれない。きょどったようなわたしのしぐさに気づいてか、彼は椎名と名指しをしてきた。
その場にとどまったまま、返事だけをかえした。彼はすこし困ったように眉をひそめて話があるとことばにし、先ほどよりもおおきめに手をまねいてみせた。
行ったほうがいいのではないか、と皐月の肘がわたしを突っついた。よこから彼女に弁当をうばわれ、視線で待っているからと告げられた。
廊下をひた歩く先輩のうしろを、おどおどとついてあるく。三年様の御成りに、みんなは廊下の端によった。心配の視線や好奇のまなざしが、わたしに向かって集まってくる。
「わりいな、急にきてから。俺んこと、知っとる?」
「え、あ……。和泉先輩、……ですよ……ね」
「おお! 知ってくれちょんのや」
廊下のいきづまり、そこは生徒用トイレのまえだった。立ち止まった彼は振りかえり、自分を知っているかと訊いてきた。
とうぜん知っている。校内で彼のことを知らないひとがいるのだとしたら、いますぐここへ連れてきて欲しいくらいだ。それくらいに彼は、不良として目立っている存在だった。
「んでさ、いきなりであれなんじゃけど。俺と付きあってくれんかや」
「……え、」
かたまってしまった私のまえには、笑顔をキープしたままの和泉がいる。無表情のわたしと不良の笑顔が、しばらくの間みつめあっていた。
「……あ、えっと。わたし、先輩のことよく知らない……です……」
「ああ、そうじゃなぁ。……知らんけん、こたえられんっちゅう感じ?」
「あ、はい……」
「ほんなら、知ってもらいにまた来るけん」
「あ、あぁ……。え……?」
和泉は笑顔キープのまま、軽く手をあげて去っていく。廊下のかどを曲がったのを見とどけると、わたしは急いで屋上へもどった。
食事をおえた皐月は、つくえのうえに寝ころがっていた。わたしの戻りに気づくと、身体をおこし聞きの態勢にはいった。
「俺らもな、一年ときはここでさぼりよったわ。……やっぱ、ここっていいでな」
「あ、……あぁ、そうなんですね……」
「なんな、まだ敬語なんじゃな。そげえ警戒されるキャラでも、ねえと思うんじゃけんどの」
あれから一ヶ月ほどが過ぎていた。和泉は何のまえぶれもなく、ここ屋上へとやってきている。きっとこれがあの時に言った、知ってもらうということなのだろう。
言いながらわたしの手もとの弁当を覗き、そのなかから肉団子をつまみ食った。お返しだといって自分の弁当のだし巻き卵を、わたしの口のまえへと運んでくる。
条件反射で開けたくちに、卵焼きが放り込まれた。そんな光景に唖然とする皐月だが、とうぜん先輩にむかって物言いなどはできるはずもない。
それは皐月にかぎったことではなく、共にここを利用している茅野もおなじだった。そして和泉は見かけによらず、陽気な人柄なのだと感じたのも三人同意見だった。
そんな微妙な状況のなか、二学期もおわりにさしかかる。隼斗の家、という放課後の居場所。それを失くしたわたしたちは、そのまま帰宅かどうするか話ながらくつばこへ向かう。
くつばこで茅野とわかれ、皐月とふたりで外にでた。正門のほうをみた皐月が、「あ……」といって立ち止まる。
みればそこには、和泉のすがた。彼はわたしたちに気づくと軽く手をあげ、笑顔でこちらへと向かってきた。
「和泉先輩、どうしたんですか」
「ん? いや、帰るんやったら、送っていこうかなって思って」
「いや、これから……」
「あ! そうやった、用事あったんや。ごめん、朱里……わたし帰る、な」
和泉の視線に、皐月は負けた。相手が先輩となれば、それも仕方のないことだ。本当はこのままわたしたちは、皐月の家にいく予定だったのだ。
悪いな、またな、という彼のことばは、半ば皐月さつきを追い払っているように聞こえなくもない。そんな和泉が、わたしの荷物をうばいとる。
自分で持ちますと返したが、それは男として格好悪いから嫌だといわれる。わたしからすればそれは格好良さではなく、人質ひとじちならぬ物質ものじちだ。
仕方なく歩きはじめようとしたとき、ふわりと肩に温もりを感じた。それが今しがたまで和泉が着ていた学ランだと気づき、わたしは顔が熱くなってしまう。
「せ、先輩……寒くないですから……」
「いいじゃん、かけときよな。マーキングなんじゃけん」
「え、は? ……マーキング」
「そげん、びっくりすんなの。ふざけちょんだけっちゃ」
いたずらっ子のように笑う和泉をみて、わたしもおもわず吹きだしてしまう。そんなわたしに彼は、よかったといって微笑んだ。
こんなふうに笑ってもらえて、すこし安心したと指で鼻をかいた。ふたたび前を向きなおした和泉は、わたしと隼斗のことは知っていると続けた。
胸のおくが、ずきっと痛んだ。まさか和泉のくちから、隼斗の名前がでてくるとは思いもしていなかった。
「あんな、こげん言い方したら、おまえ……怒るかもしれんのじゃけんどの。……施設いったやつで、ここに戻ってきたやつ……ひとりもおらんで」
「え、……なんで、そんな」
「なんでって。わかっちょんやん……」
自分は最初にあったときに、その理由は話しているという。そうだ確かにそうだった、彼の最初の用事はそれだった。かといいわたしは返事をすることができず、うつむき歩きつづけていた。
和泉がいうには、この中学から施設にいった人数は決して少なくはないという。そしてそのうち誰ひとりとして、在学中にもどったものはないという。
前例がないだけであって、隼斗がどうだと断定はできない。しかしその可能性は、きわめて低いものなのだと彼はいった。
「……怒った?」
「いや、怒っては……ないです……けど」
「腹たったとしてもいいけんよ、俺と付きあってみてくれんかや。絶対にわりいようには、……せんけんさぁ」
「わりいよう……って。そんなんじゃなくて……なんか、ま……」
「ちょっと待った! まって、やっぱまだ返事せんじょって! もうちょっと、こんまま行こうや。変なせんぱーいでいいけん、……な?」
大声でわたしの言葉をさえぎった彼は、もちまえの笑顔で親指をたてる。正直、すくわれた。どちらの答えだとしても、それはとても気の重いものだった。
和泉は決して嫌な先輩ではなかった。このままあやふやな友達関係のほうが、ずっと楽しくやっていける。ずるいけれどそれが、わたしの正直な気持ちだ。
自宅が近くなり、ここでいいと足をとめる。羽織っている学ランを手渡し、わたしの物質ものじちはかえされた。それを受け取るとき、和泉は探るようにわたしの顔を覗きこむ。
ありがとうございましたと笑顔でかえすと、彼もほっとしたように笑顔をみせた。またなと手をふり去っていく先輩の後ろ姿は、決して頼りないものなどではなかった。
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