21人が本棚に入れています
本棚に追加
第3章
第3章…01
二学年になり、北校舎へと移ったわたしたち。本校舎とのあいだに中庭をはさんでいるこの校舎は、四階建てのおおきな建物だ。その三階と四階が、二学年が使用するおもなスペースとなっている。
新校舎といわれるだけあって、建物自体はとてもきれいで広々としている。ただ悲しいことにこの校舎には、屋上へつづく階段というものがないのだ。
一年の校舎へいくわけにもいかず、しかたなく毎日を教室ですごしていた。一学年で勉強の基礎たるものを、まともに学ぼうとしていなかったわたしたち。
いまさら授業にでたところで、まともについて行けるはずもない。徐々にクラスのみんなとの間に、みずから隔たりをつくっていく。
勉強がわからないことが恥ずかしいのではない。引け目を感じているということを、みんなに知られるのが嫌だった。
そんな気持ちが態度にあらわれるようになっていき、「わかるわけねえじゃん」と開き直るようになっていく。いつしか校内では、不良と位置づけされていた。
「椎名さん、ちょっと待ちなさい!」
「は? なに……」
「ちょっとこっちに来てみなさい。んん? 椎名さん、その髪は……パーマしとるよな」
廊下ですれちがった教員に呼びとめられた。通称オールドミスの、英語教師の竹上だ。近づいてきた彼女は、わたしの髪をなめるようにみる。
いったいわたしのまわりを何周すれば気が済むのだろうか。ときおり髪をすくってみては、にらむように顔をちかづける。髪の毛が返事をするとでも思っているのだろうか。
「……これ、天然なんやけど」
「こんな都合のいい天然が、あるわけないよなぁ」
「都合って……」
「今週中に、もとの髪にもどしてきなさい」
「もどせとか言われても。……これが元々やに」
めがねの奥の瞳を、ぎょろりとわたしに向ける。まったく信じていない、という目つきだ。しかしどんなに睨まれようが、本当なのだからどうしようもない。
竹上との言い合いは、しばらくつづいた。しまいにはどうしてこうも反抗的なのだと、ヒステリックに声をあらげはじめる。
ポケットに手をいれた竹上は、おもむろにハサミを取りだした。どうしてそんなところから、そんなものが出てくるのだろうか。
竹上の左手が、すっとわたしの髪にむかってのばされる。切るつもりだ、そう思った。とっさにわたしは背をむけて、その場から走ってにげる。
「待ちなさい! とまりなさい! もとに戻さないなら、ここで切ってしまいなさい!」
叫びながら追いかけてくる竹上に、恐怖を感じずにはいられない。これは脅しではない、彼女は本気で切るつもりだ。
こんなところで掴まってしまえば、きっとわたしの頭は悲惨なことになってしまう。助けだ、だれでもいいから助けを求めなければ。
しかし今この瞬時に、それをみつけることは不可能。とにかく人、そうだひとの多いところに逃げるしかない。
目のまえの教室にとびこむ。いったいここが何組なのか、そんなことを考える余裕などなかった。教室のなかでもとくに人のかたまっている場所をめざして、わたしはその中心へともぐりこんだ。
「椎名さん! こっちに出てきなさい!」
「……あーちゃん? どしたんな、なにしたん」
「オールドミスにパーマって言われて、切るっちゅうんやが」
幼少期から姉妹のように育っていた、そんな彼女がこの教室にいた。優等生としてここで生活している彼女に、迷惑はかけたくないと幼馴染であることはふせていた。
しかし、いまはそんなことを言っている場合ではない。彼女なら、きっといまのわたしを救うことができる。周りにいる生徒は、わたしの校則違反をうたがっているようだ。
「みんなどきなさい! 椎名さんを、こっちに出しなさい! かばうなら、あんたたちも同罪になるからね」
面倒なことにまきこまれたくはないのだろう、生徒のかたまりがじわじわと崩れはじめる。まずい、このままでは剥き出しになってしまう。
すっと幼馴染の子が、わたしのまえに歩みでた。わたしを背中にかばうように、彼女は両手をひろげ盾になる。それをみた数名の生徒が、ふたたび中心へと集まりはじめる。
みればその顔は、半信半疑でふあんそうだ。しかしありがたい、信じてくれ裏切らないと心のなかでさけぶ。
「先生! あーちゃんの髪は、天然です」
「そ、そんな都合のいい天然があるわけ……」
「おばちゃんに訊いてください。兄ちゃんも天然です! うちの親に電話して訊いてくれてもわかります。うちに三歳からの、あーちゃんの写真あります。持ってきましょうか?」
さすがの竹上も、なにも言い返せなかった。もつべきものは優等生の幼馴染、わたしは運がよかった。たまらず飛びこんだ教室が、この教室で本当によかった。
隼斗のことがあり目をつけられているのではないかと、幼馴染はわたしにいった。どうしてそんなふうに考えるのだろうか。
これはわたしの生活態度の問題であって、隼斗はまったく関係ない。ましてやここに居ない人間のせいにするなんて、筋違いにもほどがある。
しかしわたしを心配してくれているという気持ちは、やはりとてもありがたく感じる。助けてくれたことに対してとその気持ちにたいして、感謝のきもちをつたえ教室をでた。
「なあ……、おばちゃん聞いてよぉ。今日な、学校でオールドミスにハサミ持って、追いかけまわされたんでぇ……」
「なんな、その……オールドミスっちゃ」
放課後、いつものようにわたしたちは隼斗の家にいっていた。茅野と皐月には、すでに竹上事件は愚痴ってある。
まだまだ気持ちが治まらないわたしは、隼斗のへやをでて彼の母親のいる部屋までおしかけていた。わがもの顔でくつろぐ、タクシーの運転手。
このひとが隼斗の母親の彼氏だということくらい、だれが何をいわなくてもわたしたちは気づいている。寝ころがってテレビを観ていたおいちゃんが、ちらっとわたしの方をみた。
ふたりのまえにぺたんと座り、竹上の通称の由来をはなした。それからハサミ事件を存分にぐちり、隼斗の母親をわらわせた。
いや、笑わせるつもりなど、毛頭なかった。しかしあまりの興奮ぶりがおかしかったのか、ふたりはけたけたと笑ったのだ。
「そん、オールドミスとかいう先生よ。おまえらん若さが妬ましいんじゃわい」
「は? ……なんそれ」
「いい歳こいて相手もおらんで、欲求不満でヒステリックんなっちょんのじゃわい」
「ちょっと、あんた子供んまえで、なんバカなこと言いよんのな」
支えていた腕を隼斗の母親にはらわれて、がくんと頭をおとしたおいちゃんは笑いながら身体をおこした。あぐらをくんで座り直すと、いたずらっこのように舌をだす。
すっと母親の手がのびて、わたしの髪をすくう。やさしく髪をすべらせながら、このふわふわの黒髪が可愛いのだと微笑んだ。
自分もそう思うと言って、おいちゃんは何度もうなづく。何度も念をおすように、絶対に染めてはいけないと隼斗の母親はいった。
「兄ちゃん、いま……いい?」
「どしたん、なんかあったんか」
部屋をのぞくと、光羅はベースを弾いていた。ベッドを背もたれにしたまま、膝のベースをよこにたてかける。くんでいたあぐらをほどき、膝をたてて足をひろげた。
光羅の瞳は、はなしを聞くよといっている。ここへ座れというように、彼の右手が膝のあいだで手招きをする。そこへ向かい合って座ろうとすると、くるりと後ろをむかされた。
いまから話をしようというのに、背をむけるというのはどうなのだろうか。しかし少々話しづらいことではあるので、こちらのほうが都合がいいかもしれない。
「……なあ、兄ちゃん。ストレートパーマって、高い?」
「は? ……なんし、そんなん訊くんな」
「ストレート……しょうかなって……」
「いけんよ」
「……だって」
「だってじゃねえやん。朱里は、この髪がすかんの?」
あきらかに不機嫌な、ひくい声がかえってきた。なぜ急にそんなことを言いだしたのかと問われ、学校での竹上のできごとを説明する。
光羅が中学のころも、竹上はよく同じようなことをやっていたという。彼女のストレス発散だから、気にすることはないといった。
うしろから髪をすくっては、さらさらとすべらせていた光羅。手ぐしでかるく梳とかしながら、「兄ちゃんは好きなんやけどな」とつぶやいた。
兄は好きだといってくれるが、わたしは自分の髪が好きではなかった。母方に似てしまったわたしの髪は、兄とちがって真っ黒なのだ。
「うん、好かん。せめて、兄ちゃんみたいに茶色やったら」
「なんな、兄ちゃんの真似して茶色にしてえんな。……けど、したらいけんよ」
「けどさぁ……」
「けどじゃねえやん、絶対に髪はいじったらいけん。そげないらんことばっかり考えちょらんで、なんか趣味みつけらな」
「趣味とかいわれたって……」
「兄ちゃんの真似してえんなら、ベース教えちゃるで。担任が、軽音部つくったろ?」
この春、たしかに学校に軽音部ができた。それを立ち上げたのは、わたしの担任だ。彼はわたしを演劇部にさそってきたが、わたしはそれを断った。
そうすると何をおもったのか、軽音部なるものを立ち上げたのだ。そしてこれならば椎名もやってみようと思わないかと、ふたたび声をかけてきたのだ。
なぜ光羅がそのことを知っているのだろうか。さらに担任からのさそいを無視し、彼をさけて歩いていることまで指摘される。
「なんで入らんの? 兄ちゃんたちのとき、どげえ頼んでもつくってもらえんかったんで」
「ええ……、作ってくれとか頼んでねえし。楽器しきらんし、持ってねえし」
「じゃけん、教えちゃるっていいよんやん。朱里がするんなら、兄ちゃんがベース買っちゃんけん」
自分の趣味のために、必死にバイトをしている光羅。その大切なお金を、わたしのベースに使ってくれるというのだ。
練習用の楽譜もくれる、アンプも自分のをくれるという。他のメンバーが初心者ならば、全員の指導もじぶんが引き受けるというのだ。
そんなことはさせられないと首をふれば、意味のあるお金と時間の使い方だから気にすることはないという。このひとに人が集まってくる理由が、なんとなくわかったような気がした。
最初のコメントを投稿しよう!