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第3章…03
帰省が決まったとしらされたその日から、どうにも気持ちが落ちつかなかった。昨夜にかぎっては、ほぼ一睡もできていないのではないかというくらいだ。
ここで待てといわれた部屋から、正門のようすがよくみえる。座っていろといいつけられてはいたが、じっと座ってなんていられるはずがない。
つくえのうえにかばんを座らせ、じぶんは何度も立ちあがり窓ぎわへいく。見知ったタクシーを視界にとらえ、おれは急いでかばんをかかえた。
前回の経験からすれば到着から呼びにくるまで、さほど時間はかからないはず。しかし正門のまえのタクシーは、なかなか中へ入ろうとはしなかった。
おかしい、まえとは違う。おれはかばんを抱えたまま、じっとタクシーをみつめていた。母親がくるまから降りるのがみえ、いよいよだと胸をはずませる。
「……なんしよんのじゃろ」
だれも居ない部屋で、おれは思わずひとりごちた。くるまをおりた母親は、その場から動こうとしないのだ。いや動こうとしないというよりは、うごけずにいるという印象だ。
車のなかを気にする職員のようすに、みょうに違和感をかんじる。いったいなにがあったのだろうか、だれかに問いたいが訊く相手がいない。
この数日のあいだに、おれはなにかやらかしてしまったか。思い返してみるも、心当たりなどはなかった。
母親がうごきをみせ、タクシーは正門のうちがわへと移動した。しかしこちらまでは入ってこずに、すぐのところに停車をしてしまう。
ひょっとして、帰省は取り消しになったのだろうか。原因となるものがみつからず、根拠のない不安だけがおしよせてくる。
扉をあけて、だれか職員をよんでみようか。不安はふくらみつづけ、檻おりのなかの動物のように室内をうろうろと動きまわった。
「おーい、久我。迎えがきたけん、荷物もっていくぞ」
「あ、はい!」
「なんか、おまえ。えらい張り切っちょんの」
「あ、いや……」
「うれしいんはわかるけんどの。……じゃけんど、ルールを守らんのはどうかと思うぞ。まあ、みんなの気持ちもわからんではないけどの……」
意味深なことばを吐きすてながら、職員はおれのまえを歩いていく。おれは何かルールをやぶるようなことを、してしまったのだろうか。
それを訊ねることはできず、また職員もふかくは話てくれなかった。もやもやとしながら後をついてあるき、母親の待つ部屋へとたどりついた。
おれの姿をみるなり、ババアはバツがわるそうな表情をした。一瞬ではあったが、おれはそれを見逃さなかった。職員になにか、言われたのだろうか。
もういちど思い返してみるが、やはり告げぐちされるようなやましい行動はしていない。職員の注意事項に、母親はおおげさにあいづちをうつ。
「それじゃ、行きましょうか」
「あ、はい。すみません……」
「……それでは、お母さん。くれぐれも注意して……久我、問題おこすなよ」
「はい、いってきます」
「家族と……、うん。ご家族と、ゆっくりな」
タクシーの手前で立ち止まった職員は、もういちど注意事項をくりかえした。ついいましがた部屋できいたばかり、それをなぜまたここで繰り返すのだろうか。
それを聞く母親の態度も、なんとなく気にかかる。まるで叱られている子供のように、すなおに返事をかえしているのだ。
最後の見送りのことばに引っかかりながら、おれはタクシーのほうへと振りかえった。そこにある光景をみて、一瞬だけ動きをとめてしまう。
なるほど、こういうことだったのか。姪っ子さんを病院につれていくらしいぞ、という含みのある職員のことばに母親は顔をゆがめる。
おそらく、いや確実にこれは職員にばれてしまったのだ。それでいてあえて、その設定を貫きとおしてくれているのだと感じた。
「それじゃ、先生……失礼します。隼斗なんしよん、はよ乗らんな」
「え、あ……ああ」
後部座席のドアをあけ、足もとに荷物をおいた。ぎこちなく横たわっている朱里のあたまを抱えあげ、そっとひざのうえに乗せて座る。
なんとなく恥ずかしくて、おれは職員の顔をみることができなくなった。ババアとジジイが頭をさげているところをみると、職員はこちらをみているのだろう。
ひざのうえの朱里のあたまが、緊張を物語っている。伏せるように下を向いている頬が、熱をおびているのが伝わってくる。
「……なあ、あたま……あげていい?」
「なんで? こんまましちょきゃいいやん」
「だって……」
くるまが動きだしたのを確認すると、朱里はあたまをあげようとした。おれはそんな彼女のあたまに手をそえた。
「ほんっと……。ばかたれのせいで、わたしゃ疲れたわ」
「なん、朱里がなんかやらかしたんな」
「病人役のくせに、元気に起きあがったんよ、こん子は。もうちっと辛抱しときゃいいもんを」
「まじか、朱里らしいやんな。……我慢、できんやったん?」
彼女の顔にかかった髪をすくい、覗き込んできいてみた。目があった朱里は、びくっとしたように耳まで真っ赤にして顔をかくす。
なにも答えない彼女のかおを、もういちど深くのぞきこんだ。これ以上はかおを背けられないとふんだのか、彼女は片手で顔をおおうように隠す。
照れている朱里をみて、どうしようもなく可愛いと感じてしまった。おもわず幼いこどもをあやすように、とんとんと肩をたたいてしまう。
ふと視線をかんじ、ルームミラーをみた。おれと目があったジジイは、にやりと笑って視線をそらす。見られていたということに、おれの顔は熱をもった。
「こら、あんたら起きんかえ! 着いたで」
「……んん、……なん」
「なんじゃねえが、着いたっていいよんのよ。はよ、降りんかよ」
かたまった身体をのばすようにして、そとの景色に目をやった。ついさっき施設をでたような気がしているが、タクシーは確かに団地のしたにいる。
おれの膝にはかわりなく、朱里のあたまが乗っている。肩をひいて覗いてみると、彼女は気持ちよさげに眠っていた。
声をかけるが反応はなく、おれは彼女の肩をゆする。ゆっくりと覚醒していく朱里のようすが、またなんとも子供のようでかわいかった。
荷物をかかえタクシーを降りると、彼女もふらふらとしながらついてくる。寝ぼけているようすの彼女をみて、おもわずくすりと笑ってしまった。
じぶんが笑われたのだと気づいた朱里は、照れくさそうにへらっと笑う。階段を踏み外されでもしたらおおごとだと、おれは彼女の手をとった。
「なんか、ノートがそうとう増えちょんな」
「ん? だって、毎日きちょんけな……。茅野も書きよんし、人数もふえたしな」
ふたりきりの部屋のなか、ふと気まずさを感じてしまう。ついさっきまで密着していた、そんな考えがおれに緊張をあたえた。
気をそらさなければと意識をちらすべく、部屋の落書帳に手をのばす。毎日のように通っているという彼女たちの日常が、このノートのなかにはぎっしりと記されていた。
おおくの落書のなかから、朱里の筆跡だけをぬきとって読んだ。どうやら彼女は、ちゃんと学校に通っているようだ。
「なん、この……オールドミスぶっ殺す……って」
「あ、それな! 通称オールドミスっちゅうババアがおんのよ。そいつに追いかけられてからさぁ……」
朱里はおれの質問に、ころころと表情ゆたかに答えてくれる。落書帳のかきこみに解説がくわわり、おれのなかの空白の彼女にどんどん色が添えられていく。
なによりも安心したのは、愚痴もあるにしたとしても、彼女の毎日が充実しているのだと感じたこと。しっかりと今に向きあっているんだ、そう感じることができたことだ。
そこに自分のすがたが無いことは、かなしくて悔しくもある。しかしそれは自分のまねいたことで、恨むならじぶんのあやまちだと承知している。
はやくここに戻りたい。おれも朱里の思い出のなかに、しっかりと姿かたちとして残りたい。強くそう感じながらページをめくり、どくっと心臓が跳ねあがる。
『隼斗に、会いたい。……by 久我朱里』
身体中の血液が、いっきに逆流をはじめた気がした。その熱いものがどこへいこうとしているのか、なにをしようとしているのかわからない。
とにかく身体のなかがさわがしくなり、あたまは真っ白になっているような感じがした。
おどけたように首をかしげ、手もとの落書帳をのぞこうとする彼女。「どしたん?」という朱里の問いにさえ、なにも返すことばがうかばなかった。
おれは喜びを声にして叫びたいのだろうか、それとも朱里を抱きしめたいのだろうか。そのどちらをすることもできず、ただ熱いこころでじっと彼女のことをみていた。
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