第3章

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c8cb2694-6196-44ea-88e4-31e1efb37311 第3章…06  かじかむ手をこすりながら、じっとまがり角をにらみすえていた。どんなに太陽ががんばってくれても、吹きぬける風にくじけてしまいそうだ。  おもわずその場にしゃがみこみ、ひざごとじぶんを抱きしめる。団地の階段へと逃げこんだならば、この寒さもすこしはしのげるかもしれない。  しかしそうしてしまったら、その到着に気づくのが遅れてしまう。一秒でもはやくタクシーに気づき、隼斗(はやと)の姿をこの目にとらえたい。  いまか今かと、はやる気持ち。道行く関係のないくるまのエンジン音が、じゃまになって仕方がない。 「来た!」  あまりにも待ち焦がれすぎ、おもわず声にだしてしまう。しかし、なにも恥ずかしいことなんてない。なぜならわたしには他のなにも、そしてだれのことも見えてはいないのだから。  角をまがってきたタクシーは、ゆるやかに焦じらすようにすべりこんでくる。そわそわと身体を上下にゆらすわたしを、まるで面白がっているかのように。  まさかそんなことがあるわけがない、くるまに意思などあるはずもない。ひかりの加減でみえた、おいちゃんの顔。あきらかに面白がっているかのような、わるい笑みをうかべていた。 「なーんな、朱里(あかり)。もう来ちょったんな! あんた、誰にも言うちょらんじゃろうね」 「ああ、言ってねえいってねえ」 「なんかね、その適当な返事は……」 「いいけん、おばちゃん……隼斗(はやと)は!」 「んまぁ……腹たつこじゃな」  さきに降りてきた隼斗(はやと)の母親と、ろくに視線もあわさずに返答をした。図太ずぶとくなったなと笑うおいちゃんの姿すら、まともに視界にはいれていない。  けたけたと笑いながら、後部座席から隼斗(はやと)がおりてきた。その手にある荷物を受け取ろうとしたが、すばやくそれはうしろに退かれた。 「バカみたいに、にやにやと笑いおうちょらんで、さっさと家にはいりよや」 「うるせーな、くそババア。わかっちょんわ」 「うるせえじゃねえわ、ひとめについたら品がわりいじゃろうがね。面倒なことになったら、どげえすんのな」  ふたりをおろしたタクシーは、ゆっくりと駐車場へといどうした。尻からおわれるようにしながら、わたしたちは階段をのぼっていく。  ごめんなと謝る隼斗(はやと)に、微笑んでくびをふる。いまが大切な時期、それはわたしでも理解ができている。この帰省で問題をおこすわけにはいかない。  こんかいは誰のことも呼ぶなと、おばちゃんは真剣なかおでいう。もうこれ以上の面倒はこりごりだ、と眉間にしわをよせた。  あとから追いついてきたおいちゃんが、そんなに小言をいうなと笑った。いいかげん隼斗(はやと)もわかっている、いや誰よりも本人がわかっているという。 「わりいな、ババア……なんか、苛々しちょって」 「いいや、仕方ねえっちゃ。大事なときなんじゃろ?」 「んん、まあな……」 「むこう、……いつ帰るん」 「あさって、……たぶん午前中には、こっち出るとおもう」  いくら大切な時期だとはいえ、ふつかほどの滞在とは短すぎる。神経質になっているのは、隼斗(はやと)の母親だけではない。  関わるすべてのひとがぴりぴりしているし、とうぜん隼斗はやとほんにんも気を張っている。すべてがこの三学期にかかっているからなのだ。  四ヶ月ぶりの帰省なのだ、ほんとうなら彼もみんなに会いたいだろう。しかしいつもより慎重にならざるを得ない今だから、あえて誰にも連絡はしなかった。 「あ、そうや。てがみ、ありがとな」 「うん、けどさ……あれって、ほんとうに施設のひとが読みよんの」 「そうっちゃ、あれまじで読みよんので。いっつも封筒が開いとるけんな。恥ずかしいんじゃけんど、あれがあるけん頑張ろうっておもえるけんな」 「恥ずかしいって……、それこっちのセリフやけんな」  手紙をわたされるとき、だいたいは職員からひやかされるという。そんな原因になるような内容は、いくらわたしでも書きはしない。応援とはげまし、それだけを意識して書いている。  あまりにも気をつかいすぎて書くものだから、まいかいそれほど変わりばえのない内容になりがちだ。しかし職員は健気だといって、隼斗(はやと)をちゃかしてくるのだという。  あらためて言われると、どうにも照れてむずがゆい。しかし矢野からの報告で彼の頑張りをきいていたわたしは、それが自分のおかげだと言われることが嬉しくもある。 「なあ、こっちに帰ったらさ。矢野のクラスって決まっちょるって本当なん?」 「ん? うん、施設に行ったときの担任のままじゃって聞いたで」 「そうなんや……。矢野か……」 「なんな、どしたん」 「いや、矢野ってちょっとだけ、うざくね? けど、同じクラスになれるんなら……」 「え、おれは嫌やけん」  わたしなりに思い描いていた、あこがれの場面。それは最初は屋上から、少しずつと考えていたことだった。しかしそれは叶わず、遠くはなれてしまうこととなった。  会えないことに耐えぬいた、そしてめぐってきたこのチャンス。おなじときを過ごすことができるかもしれない。もしもおなじ教室になれたならば、どんなに楽しいだろうか。  そんなありきたりな恋の願望は、隼斗(はやと)のひとことで打ち砕かれた。彼はわたしが近くにいることを、そこまで望んではいないのだろうか。 「なんで、嫌とかいうんな……」  壁にもたれた、たがいの背中。かすかに触れる肩のぬくもりすら、心もとなくうつむいた。やばい泣きそうだと思ったとき、隼斗(はやと)の腕がぴくりとうごいた。 「だって、……はずかしいじゃん」  そうくちにした隼斗(はやと)の表情は、ほんの一瞬しかこの瞳にとらえられなかった。近すぎる顔と、ふれあったくちびる。そのまま畳のうえに倒れこんでしまう。  慣れてはいないくちづけなのに、腕は自然とたがいを抱きしめあっていく。のしかかってくる隼斗(はやと)の重みが、とても心地よくこのまま居たいと感じる。  ふいにはなされた彼のくちびるが、わたしと頬をよせ耳元でなまえを呼んだ。ことばなのか吐息なのか、はっきりとしない音にどきっとする。  これはひょっとすると、そういうことなのかもしれない。たよりない思考のなかで感じたとき、彼の身体の変化に気づいてしまった。 「……ごめん。……ごめんな、すこしだけ……こんまま。……ほんと、ごめん」  そうつぶやく隼斗(はやと)の身体は、こころなしか震えているようにかんじる。ときおり呼吸をとめては、おおきく息をすって吐く。  わたしは動いてはいけない、なんとなくそう感じた。なのに強く抱きしめてしまう。そのたびに隼斗(はやと)は苦しそうに、まわしている腕にちからを込めていた。 「あ、……ごめん」 「いや、朱里(あかり)は……なんも。……ごめん」 「あんたら、ごめんごめん言うちょらんで、さっさと離れんかよ!」  はなれるタイミングを失っていたわたしたちは、隼斗(はやと)の母親の一喝(いっかつ)でとびおきた。「隼斗(はやと)!」というみじかい母の叫びに、「わかっちょる!」とかえす。  苛立ちにも気まずさにもみてとれる表情で、隼斗(はやと)はおばちゃんに背をむけあぐらをくんだ。あいだにいるわたしは何もできず、畳のめをみつめていた。 「朱里(あかり)……ちょっと話があるけん、あっちの部屋についてきよ」 「……え、はなし」  そのことばに反応した隼斗(はやと)は、すこしだけ母親を視界にいれ舌打ちをする。 「ババア! 朱里(あかり)に、いらんこと言うな! ……俺だって、考えちょんのじゃけん。朱里(あかり)、行かんでいいで」 「しゃーしい! あんたの考えなんか、あてになるもんかよ! ほら、はよ立って……こっちきなさいって」  行くなと来いで、わたしの両腕はふさがっていた。この場合、わたしはどちらの言うことをきくべきなのだろうか。にらみあった親子のあいだで、なすすべなく途方にくれる。  どうあっても母親はひきさがるつもりはないようで、対する隼斗(はやと)もまったく怯んだようすは見せてはいない。  なんとなく隼斗(はやと)の母親のいいつけを、無下にするわけにはいかないと思ってしまう。立ちあがってしまったわたしをみて、彼はしぶい顔をしてさらに母親をにらむ。  なんども振りかえり彼をみたが、そのひとみは最後までおばちゃんを睨みすえていた。 「朱里(あかり)、あんたな……。あげなバカタレ……いや、あん子じゃねえでもじゃけんど。いいか、あのな……男に、ながされたらいけんで」 「流される……って……」 「いいか、よう聞きなさいよ。おとこっちゅうんはな、やりてえが先にたつ、単純ないきもんなんじゃけんな」 「……え、」 「簡単に、じぶんを差し出したらいけんので。損するんは、おんなのほうなんじゃけんな」 「損するって、……なんで?」 「そげなんは、いま知らんでもいいけん。とにかく、じぶんのことは自分でまもらないけん。だいじにせんといけんので……わかったか?」  正直なところ、わからなかった。差しだすの意味することは、いくらわたしでも理解はできた。そうなる段階のなかに、お互いをもとめる気持ちがあること。  それを否定するかのような、おばちゃんの最初の発言がわからない。損をする、そのことばの意味もわからない。好きあってそうなることに生じる、損という概念(がいねん)がおもいうかばない。  はじめてだから、そういうことなのだろうか。最初のひとは慎重に、おばちゃんはそう言いたいのだろうか。至ってまじめな表情の母親にむかい、そんな質問はなげられるはずもない。  あたまのなかをぐるぐると駆けめぐる疑問をさとったのか、おばちゃんは呆れたように肩をおとした。「こん、ばか娘が……」そういいながら、わたしの頭をかるく平手でたたく。
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