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第3章…07
何ヶ月かのときをかけ、施設や児童相談所などとのやりとりが交わされていたはず。桃の節句とかいうものもおわり、そろそろ俺の今後がみえていてもおかしくはない。
検討の材料となる、ここでの生活や帰省時でのたいど。俺はじゅうぶんに気をつけて、不利になるような軽率な行動はおこしてはいない。
今後の交友関係の把握や、受け入れがわの学校の態勢。それは俺があがいたところで、どうにもできることではない。ただひたすら、問題がないことを祈るしかない。
「なあ、おまえってさ。なんで、そげえ帰りてえとかって思うんな」
「なんでって……。おまえは、帰りてえとか思わんの?」
消灯になった部屋のなか、もぐりこんだ布団のなかから男が問うてきた。たがいの顔などみることなく、気のない会話がつづいた。
めだった楽しみもないかわりに、それほどの不自由も感じないだろうと男はいう。たしかに慣れてしまえば、ここでの生活もそんなにつらいものではない。
あらためて考えさせられる問いだ、なんとなくそう感じた。もしも朱里と知り合うまえに、ここに来るようなことになっていたならば。
すでに付き合いを絶っている、過去のなかまをおもいうかべる。たしかにあの頃は、あれで楽しかった。しかしいまの俺に、なっていただろうか。
おそらく頑張るなどという考えにはいたらず、帰省のたびに楽しさにかまけて問題をおこしていただろう。
「おまえってさ、……地元に大切なやつとか、そんなんっておらんわけ?」
「なん、大切って。……あれか、彼女とかそんなんのことか」
「んん、まあ。そんな感じかや」
「めんどくせえやん、そんなん。女とか、ちょっと格好いいおとこに告られたら、簡単に乗りかえるし……彼女とかつくらんが楽じゃが」
「そうかやぁ……」
例の彼女とはうまくいっているのか、と男が問う。いろいろとすれ違いはおおかった、けっして好ましいとは言えない遠距離の関係。
じゆうに会うことは叶わないが、じぶんの心のささえになっていることは確かだ。だまって待ってくれている彼女のもとへ、いちにちでも早くもどりたい。
「ふーん……」と、素っ気なくかえされたことば。しかし最後に消え入るような声で、「……すげぇな」とつぶやいた男のこえを、おれは聞きのがしてはいない。
おそらくこいつは、地元に彼女がいたのだろう。そして望んでいたのとは異なるほうこうに、ことは進んでしまったのだろう。
ここでの男の恋愛事情、それもしっかりと定まってはいなかった。この一年半ほどのあいだに、こいつは数人と関係をもっている。
とっかえひっかえとまではいかないが、相手にのめり込むようすも見せてはいなかった。向かいのベッドに横たわるおとこは、その後なにもはなすことなく静かに闇にとけていった。
「おーい、久我。登校のまえに、ちょっと話があるけん。朝食すませたら部屋によってくれ」
「……あ、はい」
朝のランニングからかえり、正門をぬけたところで声をかけられた。声をかけてきた職員の表情は無、そこからは内容の想像は難しい。
寮にもどり朝食へ向かうも、それが気になって食べた気がしない。あごを動かす回数だけ、過去のおこないをふりかえる。思いあたるふしがない、なんのはなしなのだろうか。
「失礼します、久我です! 入ってもよろしいでしょうか」
「おお、来たか。はいりなさい。……かたいな」
職員からのよびだしで、ろくな話をされるやつはいない。そうおもい身構えているのだろうと、職員はふくむように笑う。あたっているだけに、反応にこまってしまう。
扉のまえで直立するおれに、職員は手招きをした。いっぽまえに出たおれに、もっと近寄れとふたたび手をまねく。
この春、地元復帰のせんがつよまった。担任と親御さんには、このあと連絡をいれておく。のこりの期間さらに気をひきしめ、これまでどおり頑張りなさい。
「……久我? 聞きよるんか」
「え、あ、はい。……え、帰れる……ん、ですか?」
ずっと聞きたかった、地元復帰のことば。ずっとずっと願い頑張ってきた、そのことだけを心のささえに。聞こえているのに、あたまがついていけない。
実感がわかないとは、こういうことを言うのだろうか。職員のへやをでて、自室にもどる。荷物をかかえて、学校へとむかう。いつものように過ごしながら、ゆっくりとよろこびを感じていく。
数日がたち、矢野が面会へとやってきた。いつだって病弱そうにみえる矢野のかおが、きょうはやけに血色よくかんじる。
「久我! がんばった、えらい! よく頑張った」
「なあ、……朱里は知っちょんの」
「いや、……まだ」
施設のほうから、口外はかたく禁じられているという。しらせてあげれば、どんなに彼女がよろこぶだろう。おそらく泣いてよろこぶに決まっていると、矢野は目尻をさげた。
つたえたい、伝えてあげたい。待ち遠しい、その日がくるのが待ち遠しくてたまらない。
めがねの奥のそのひとみに、なみだをいっぱいに溜めていう。そんな矢野のすがたをみて、やっとおれは実感という感覚をしる。
「久我ってさ、……退園、きまったんじゃろ」
「は? なんで……」
矢野との面会をおえ、おれは自室にもどった。ベッドにくつろいでいた男は、こちらを見ないままにそういった。なぜ気づかれてしまったのだろうか。
おとこに言わせれば、おれはわかりやすいという。ここ数日のおれのようすにも違和感はあったが、今日の面会の人物のようすで確信したというのだ。
「あれやんな、その待っちょるっちゅう彼女? よろこぶじゃろうな」
「……あ、ああ」
「なん? いまさら隠さんでいいで。あれじゃ、……よかったやん」
「んん、……なんか。……ありがと」
気のないそぶりではあるが、なんだかうれしく感じてしまった。あまり馬が合っていたとはいえない男だが、いざこうして別れるとおもうと寂しくもかんじる。
会話がなくなり静まり返ったとき、部屋のまどがノックされた。おれは窓をあけにはいかない。なぜならその音は、おとこの彼女がきたという合図だからだ。
しかしそこに見えたのは彼女ではなく、そのともだちのすがただった。そのおんなから伝言をうけたおとこは、なにも言わずにその窓からでていった。
めずらしいこともあるものだ、男のほうから出向いていくなんて。ひょっとしたらあいつは、いまの彼女には本気になっているのではないだろうか。
「久我、緊急のようじだ。……いますぐ、職員室にこい」
午前の授業がおわったタイミングで、職員からのよびだしを受けた。放送でいえばいいものを、わざわざ教室までやってきた職員。
その表情は穏やかではなく、よき話ではないことは予想できる。しかし心当たりのようなものはなく、ただ言われるままに教室をでた。
職員室のおく、応接スペースに誘導される。間仕切りの壁をこえたところに、ふたりの人物のすがたをとらえた。なぜここにこいつが居るのだろうか。
そこにあるソファーに浅くこしかけていたのは、おなじ部屋のおとこと付きあっている女だった。そしてそのよこに渋い表情ですわる、女子寮の職員のすがたがあった。
「久我。そこに座りなさい」
「え? ……あ、はい」
すわるようにと示されたのは、おんなの真向かいになるソファーだった。正面にすわろうとしている俺のことを、ただのいちども見ようとしない彼女。
おれがここへ呼ばれてきたことに、なんの不思議もかんじないのだろうか。まるで俺がくることを知っていたかのように、不自然なほどにこちらをみない。
そしてこわいくらいに俺をみている、彼女のよこの職員もきになる。その瞳はなにかを言いたげでもあり、あきれているようにも感じられる。
着席をかくにんした職員は、ひとつおおきな咳ばらいをした。そしてつぎにくちにしたのは、彼女の妊娠というしらせだった。なぜそんな話を、この俺にしてくるのだろう。
そんな疑問をぶつけようと、かおをあげた瞬間だった。おれは、自分の耳をうたがってしまう。
「なあ、久我。あいては、……おまえらしいの」
「…………は? ……え、ちょっと待って。……こいつって、おなじ部屋……」
「なんでな! なんでそんなこと言うんな! 退園がきまったけんって、……わたしのことなんか……」
おれの話は、おんなによってさえぎられた。なんとかして続きをはなそうとするが、そのたびに女はおおごえをだし遮ってくる。
ここはどうあっても真実をつたえなければ、そう思ったおれはことばを止めずに言い切った。おれではない、おなじ部屋のおとこの彼女だ。
どんなに訴えても、職員はしぶい顔のままなにもいわない。おそらくおんなも必死なのだろう、しまいには泣きだしてしまう。久我くんに裏切られた、泣きながらそういいつづける。
おれと彼女の逢瀬を黙認もくにんしていたと、同室のおとこが職員にいったらしい。
あのとき、そう女のともだちが呼びにきたときだ。退園をいわってくれた、それは俺の平和な勘違いだった。おれはめでたく裏切られた、もうどう足掻いてもむだだろう。
「とりあえず、地元のはなしは……」
「ああ、……もう……いいです」
「親御さんには、連絡をしとくけん……」
「あ、矢野……。担任には……まだ、言わないでください」
ざんねんだとか、くやしいだとか、もうそんな感情すら失っていた。あたまに浮かぶことば、それは二文字。絶望、ただそれだけだった。
すぐそこに見えていた、さくら色の希望という文字。たった一夜にして散り落ちた、はかなすぎる夢の花だった。
朱里とのやくそく、それはもう果たすことはできないだろう。せめて最後のいちねんだけでも、朱里の願いをかなえてあげたかった。
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