第3章

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b4b1d416-2bc7-441a-8fbd-a0056e24865e 第3章…08  隼斗(はやと)の今後について、めだった情報のないまま三学期がおわる。この三ヶ月間は、とくに意識してはげましの言葉だけを手紙でつたえていた。  矢野は、最低でも月に二回は面会にいっていたはず。それでも持ち帰ってくる情報といえば、施設でどのように頑張っているかの報告だけ。 「おーい、おい椎名(しいな)! ちょっとまて、椎名、椎名、しいな!」 「……うるさ。……なに、そげえ何回もよばんでも聞こえちょん」  くつばこの手前で足をとめ、声のほうをふりかえる。体育の教師のくせに息をきらし走る、矢野のすがたをとらえた。  ひざに手をつき、「間に合った……」と肩をゆらす。間に合うだろうとも、なぜならわたしは止まっている。よほど全力ではしったのだろうか、呼吸はととのわず右手だけが焦っている。  おそらくその右手のしぐさは、ちょっと待ってくれと言いたいのだろう。そうこうしている間に、皐月(さつき)がくつばこへやってきた。 「……なんしよんの」 「……さあ?」  わたしと矢野のすがたを見て、不思議におもうのは皐月(さつき)だけではない。やってくる生徒のほとんどが、わたしたちをみては首を傾げてさっていく。  それでなくとも荷物のおおい学年おわり。せまいくつばこスペースで、わたしたちはじゃまな障害物でしかない。それに気づいたか、矢野がいどうをはじめた。  ついてこいと手招きをされ、廊下のすみへとついていく。すこし息がととのったのだろうか、身体をまっすぐにおこした矢野。  やっとのことで用件がきけるそう思ったつぎの瞬間、矢野がうれしそうに破顔はがんした。 「え、なに……。きもちわりいんやけど」 「なんが気持ちわりいか。あんの、あんの椎名(しいな)。……帰ってくるんよ!」 「……なにが」 「なにがじゃねえ、久我(くが)よ! 四月から、この学校に通うことになったんよ!」  矢野のこえは聞こえている、そのことばの意味もりかいできる。なのに気持ちがおいつかない。脳からの指令が、おりてこない。  反応のわるいわたしをみて、矢野は眉をひそめた。「どうしたんか、椎名(しいな)」、自分がどうなっているのかわからない。  「嬉しくねえんか」、うれしいに決まっている。帰ってくるのだ、一緒にここに通うのだ。矢野はわたしの肩をつかみ、はげしく前後にゆさぶった。 「……え、施設。……でるって、こと……なんでな」 「そうよ! 施設をでて、この学校にかえってくるんよ!」  ぼうっとしているわたしの腕を、皐月(さつき)がつかんでひっぱる。うるんだ瞳の彼女は、わたしに何度もうなづいてみせた。  かえってくる、隼斗(はやと)がかえってくる。皐月(さつき)に抱きつき、ひとめも気にせずおおごえで泣いた。  施設からのくちどめで、教えてあげられなかったと矢野がいう。明日からは春休み、もうわたしに教えてもいいだろうと判断したと。  みれば矢野のめには、涙があふれそうになっている。おれは久我(くが)の担任だうらやましいだろうと、すこし意地悪な笑みをみせた。 「おばちゃーん! おばちゃん、おばちゃん。いつ迎えにいくん!」 「な、なんか……朱里(あかり)。なにをそげえ興奮しちょんのな」 「隼斗(はやと)よ! 帰ってくるんじゃろ、いつなん? いつ迎えにいくんな」  かぎが開いていることをしっているわたしは、いきおいよく玄関のとびらをあけた。おおごえで叫びながら、雑にくつを脱ぎすておくの部屋へとかけこんだ。 「おいちゃんのタクシー? おばちゃんしか行かれんの? いついくん? なあ、いつ迎えにいくんな」 「ちょ、ちょっと朱里(あかり)……とりあえず、いっかい落ちつきよ。あんた、隼斗(はやと)がかえるって、だれから聞いたんな」  ここにくる直前に、学校で矢野から聞いたとはなす。それをきいた隼斗(はやと)の母親は、わかりやすく困惑のかおをした。  ふと施設からのくちどめのことを思い出し、明日から春休みだから問題ないとつけくわえた。心配しているようなことにならないよう、わたしも決して口外はしないと誓う。  おばちゃんは困ったかおをして、わたしの腕をゆっくりとつかむ。そのうでをそっと自分にひきよせ、そのまま畳へとしゃがみこむ。  向かい合ったおばちゃんのうしろに、おいちゃんの姿がみえた。いつだってわたしをみると微笑んでくれる、そんなおいちゃんが笑わない。 「あんな、落ちついてきくんで。……隼斗(はやと)じゃけんどな、帰ってこられんなったんじゃわ」 「……なん言いよんの? またまた、うそばっかり」 「ばかたれ、……おばちゃんが、こげな嘘つくもんかよ」  わるいいたずらだと思った、いやそう思いたかった。いや、まだ冗談だと思っているし、そうでなければつじつまが合わないと思った。  つい今しがた、矢野から聞いたばかりなのだ。ここへくる数十分のあいだに、じたいが急変などするはずがない。苦笑いでおいちゃんをみるが、おいちゃんは笑い返してはくれない。 「……え、うそなんやろ?」 「じゃけん、うそじゃねえって言いよろうがね。……あんな、……少年院にな、いくことになったんじゃわ」 「少年院……。なんで……、意味わからんのじゃけんど……」  どうしてだといくら問うても、ことのいきさつは教えてはもらえない。ただ隼斗(はやと)の母親がくりかえすのは、もうここには来るなというセリフ。  中学三年という、たいせつな時期になるという。今後の進路に、おおきくかかわってくる時期だという。それぞれの道をあるくため、隼斗(はやと)を忘れろという。  ふりだしに戻された気持ちになった。二年前の、あのときと同じ虚無(きょむ)を感じる。  さすがの隼斗(はやと)も二度とここへは戻れないと、別れるかくごはできただろうという。もうここへは来るな、今後かぎを開けておくことはしない。  施錠のおとに我にかえり、急いでドアノブを掴みまわした。放心したまま外にだされ、すべての終わりを告げられたと実感する。 「朱里(あかり)! ……久我(くが)はいつ……。え、どしたん……」 「……皐月(さつき)。……なんか、もう……なんもかんも、嫌や……」  しばらくまで隼斗(はやと)の家のまえでねばってみたが、おばちゃんが応答してくれることはなかった。行き場をなくしたわたしの心と身体は、よろよろと皐月(さつき)のもとへとたどりつく。  市営の団地からそう遠くはない、彼女の母親の借りているアパート。そこへあがりこみ、嫌になったといういきさつを説明する。  よい報告がまっていると信じて疑わなかった皐月(さつき)も、はなしの急展開に気持ちがついていかない様子だった。 「……全部さ、忘れてしまって。……最初っから、なんもなかったことに……ならんのかやぁ……」  わたしの、そのひとことがきっかけになった。おもむろに立ちあがった皐月(さつき)は、まようことなく台所へとすすむ。冷蔵庫をあけ、なにかをつかみ戻ってくる。  両手でかかえるようにして運ばれたもの、それは大量の缶ビールだった。それをわたしのまえに、ならべていく。 「……なん、これ」 「うちのおかんも、嫌なことがあったとき……こげんしよんけん」  飲んでわすれる、そう皐月(さつき)の母親がいっていた。だから飲もう、飲んでわすれようというのだ。  はじめてのビール、それは苦いだけの飲み物だという印象だ。しかし嫌なことが忘れられるというのならば、どんなに不味くとも飲むしかないと思った。  たったいちにちで、しかもものの数十分のあいだに、天国と地獄をあじわってしまった。そんなことってあるのだろうか、いや実際にあったのだから笑えない。 「……なあ、それって……おばちゃんの?」 「なん? ……あ、このたばこ? いんや、うちのおかんは吸わんけん……くそ男のやろうな」  カラーボックスのうえに忘れおかれた、皐月(さつき)の母親の彼氏のたばこ。光羅(あきら)から、いけないといわれているもの。  しかし真似をするなと止められていた飲酒には、すでに手をだしたあと。いまさらたばこだけは、などと調子がよすぎるきもする。  いや、そうではないかもしれない。飲酒のせいで気がおおきくなり、もういいかと開きなおりの気持ちがつよい。誰がみているわけでもない、話さなければばれはしない。  吸い方など知らないわたしたちは、なんとなくのみんなの真似で火をつける。そのまま思いきりそれに吸いつき、深呼吸のごとく煙を肺へとおくりこんだ。  痛いどころの話ではない、このまま死ぬかのように咳こんだ。あふれる涙をぬぐう余裕すらなく、ころがりしばらく苦しみもがく。 「……なあ、皐月(さつき)。……少年院ってさ、どんなとこやとおもう」 「げほっ……。どんなんやろ、……刑務所、みたいなんかや」  豊徳学園(ほうとくがくえん)の存在も所在も、ほんの少しまえに知ったばかり。少年院というものがあることくらいは知っていた。ただ、どこにどうあるのか知りはしない。  あんなに頑張っていた隼斗(はやと)に、いったいなにがあったのだろうか。また理由もわからないままに引き離され、こんどこそもう二度とはあえなくなるのだろうか。  峠のみどりをながめ、学園へむかった日の胸のたかなりがよみがえる。おなじクラスは嫌だと照れわらい、かさねたくちびるの温もり。最後にあった日の、あの隼斗(はやと)の笑顔がとおくなっていく。 「会えんくなる!」 「な、なん……びっくりするやん。……朱里(あかり)?」  とつぜん立ちあがったわたしに、顔をあかくした皐月(さつき)がめをまるくする。隼斗(はやと)が学園にいるうちに、いまのうちに会っておかなければ。  時計をかくにんすれば、すでに門限をすぎている。いつ光羅(あきら)が来ても、おかしくない時間だとあせりがでる。おもわず皐月(さつき)の腕をつかみ、強引に玄関へとつれだした。 「ちょ、ちょっと……。朱里(あかり)、どしたんな」 「……隼斗(はやと)に、会いてえ」 「うん、それはわかるんやけど……どうやって……」 「なんとなくなんやけど、……学園のあるとこ、わかるかもしれんけん」  なんとなくでも行けるかもしれない、本気でそう思ってしまった。峠までのみちは、かんぺきにわかっている。あとはその峠をひたはしるだけ。  きっとわかる、あの橋のちかくまで行けばきっとわかるはず。根拠のない自信が、わたしを突き動かしていた。  ポケットのなかに手をつっこみ、自分の所持金をみせる皐月(さつき)。わたしもおなじように、ポケットのなかみを彼女のまえに差しだした。  ふたりのを合わせてみても、それは二百三十円にしかならない。わたしたちの交通手段は、皐月(さつき)の家にある自転車のみ。 「……わかった、朱里(あかり)。行けるとこまで、いってみろうや」  冷静にかんがえたなら、むぼうすぎることだと誰でもわかる。それでも彼女は、きりっとした笑顔でやろうと言ってくれた。だれにも何もつげることなく、わたしたちは県北をめざしてはしりだした。
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