第1章

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9ff5109a-b2ad-4dd1-b890-f0b69308d184 第1章…05  茅野(かやの)がむかった屋上から、まったく聞きおぼえのない男の声がきこえた。それだけでもじゅうぶんな不安材料なのに、茅野は私の名前をつげたのだ。  もうなにが起きているのかさっぱり状況が把握できず、ただただ込みあげる感情は『こわい』というそれだけだった。  とにかくすぐにこの場から離れろ、きっと私のあたまがそう判断したのだろう。なにも考える余裕などあたえずに、私の足は教室へとむかって走りだしていた。  教室に入るやいなや、私は窓ぎわのじぶんの席へと直行する。椅子の背もたれに指がふれた瞬間に、やっと安全な場所についたとほっとした気持ちになった。  ふと右手をみると、しっかりと皐月(さつき)の手をにぎっている。苦笑いの彼女をみて、おそらく私は彼女を振りまわすように走ったのだろうと申し訳なく感じた。 「あ、……なんか……ごめん」 「いやいや、いいんやけどさ。朱里(あかり)、大丈夫なん? なんか、すげえ顔……ひきつっちょんのやけど」 「まじ、びびったわ……。誰かおったでな……、なんやったんやろうか」 「わからんけどな……、まあ……あれやわ、授業ももうすぐはじまるし、そしたら茅野(かやの)も来たりせんやろうけん、大丈夫やとおもうで。終わったら、そっこうでむかえにくるけん……心配しなさんな」  皐月のはげましの言葉に、ちからなく笑みをかえし見おくる。教室から姿を消すぎりぎりまで視線で追い、それから机に向かうがどうにも気持ちがおちつかない。  気をまぎらわすように机に手をいれ、つぎの授業に必要なものを準備する。始業のチャイムは鳴らないうえに、まだほとんどの生徒は着席なんてしてはいない。こんなにも始業のチャイムを心待ちにしたことなど、どんなに過去をさかのぼっても思いあたる記憶がない。  ざわざわとする教室のなかでも気になるほど、教室の扉がはげしく開けられる音がした。おもわず反応してしまい、音のほうへと視線をむけてしまう。そこに立っている人物と目があってしまい、不自然に目をそらして机にかじりつくように前をむく。 「なぁなぁ、さっきの話のつづきなんやけどさぁ……」  うしろの席に陣取った茅野は、話の続きだといって背後でおなじセリフをくりかえす。あとす少し、もうすこし……始業のチャイムは遠くないはず。このまま聞こえないふりをとおして、なんとかこの場をやりすごそうと窓の外に意識をもっていく。  まもなく午後の授業がはじまるという合図のチャイムに、茅野は舌打ちをして席をたった。不満をあらわにする後ろ姿を見おくり、廊下に消えていくのを確認してほっと胸をなでおろす。  ざわざわとしていた生徒たちも、各々の席へとむかいはじめる。私のうしろの席の生徒も、内心きがきではなかったのだろう。茅野(かやの)が教室から去るのを見とどけたとたん、ほっとしたように自分の席へと走りよってきた。その彼が後ろにおさまったことで、やっと私も日常を取りもどせたような気持ちになる。 「……どけ!」 「うえっ、……あっ」  安心しきった私のうしろに、なにやら違和感をかんじた。横の生徒が私の後方にむかって、気の毒そうな視線をおくっている。その視線をたぐるように振りかえり、私の思考は一瞬だけ停止した。  いつのまにか戻ってきていた茅野が、男子生徒の首根っこをつかんで立たせている。立たされた生徒はびくびくとしたようすで、椅子のよこに立ちつくしていた。そんな男子生徒にかまうことなく、茅野はどかっと席につく。  机のうえのものを慌ててかきあつめ、男子生徒はおろおろと目をおよがせていた。そんな生徒が気の毒に思わないわけではないが、なるべく関わりたくないと私は前をむいてしまう。 「はい、席につけよ。午後の授業……、ん? こら、そこの生徒、なにをいつまでも突っ立っちょるか。はよ席につかんか」 「えっ、あ……席……、えっと」 「なに、自分の席もわすれたんか?」 「あ、いや……その……」 「ああ……、ほらあそこ。後ろの席があいとる……そこでいいから座りなさい」  おろおろとする男子生徒とのやりとりの途中、教員は普段はいない茅野の存在にきづいた。ささっと廊下側のいちばん後ろの空席をみつけだし、その生徒にそこへ座るようにと指示をする。  本来ならばそこは、茅野が座るべき場所。自分の場所を奪われたにもかかわらず、男子生徒は気兼ねするように茅野をみる。とうぜん茅野はしらん顔で、男子生徒のほうなど見向きもしない。  みかねた教員が、ぱんぱんっと手をたたく。その音をはずみにするように、生徒は廊下側の席へと小走りした。生徒が着席すると同時に、教員は教科書の何ページをひらけと涼しくいいはなつ。なにごともなかったように、午後の授業は始まってしまったのだ。 「なあ……。なあってば。聞こえちょんのやろ? なあ、彼氏がおるかおらんかだけ、そんだけ答えてくれんかや」  たしかに茅野の声はきこえているし、聞こえないわけがないと言い返したい気持ちもあった。しかしここで反応してしまえば彼のおもうつぼ、そうはなりたくない気持ちのほうが勝る。  じわじわと競られたうしろの机が、こつんと私の椅子の背もたれにあたる。しらん顔をつらぬく私の背中を、つんつんと茅野(かやの)の指がついている。教員の言葉になにやらみんなはノートをとっているが、私の耳にはなにひとつ入ってきてはいなかった。  この執拗なほどの彼の行動には、どんな理由がこめられているのだろうか。あの屋上の声のぬしが関わっていることくらいは、いくら私でも想像はついた。しかしその声のぬしに、まったく見当がつかなかった。  ひょっとして兄の知り合いだろうか、とも考えてはみた。しかしもしそうだとするならば、私の名前を知らなかったことが不自然すぎた。考えてもおもいつく人物はうかばず、また茅野の行動の意図もつかめない。  生徒たちの気持ちが、そわそわとしはじめる。ふと時計をみると、長針がまもなく終業の時刻をさそうとしていた。幸いにも最後の授業の担当教員は、このクラスの担任でもある。おそらくこのままホームルームへと流れこみ、あとはそのまま下校となるにちがいない。 「よーし……、じゃあ部活のないものは、いつまでも残ってないですぐに下校するんだぞ」 『よっしゃ!』  この日ばかりはおとなしく言うことうをきいて、誰よりもすみやかに下校してやろうと思った。心のなかで掛け声をかけ、私はいきおいよく立ちあがった……つもりだった。  うえに向かったはずの私のいきおいは、あっけなく椅子に押しもどされていた。ふと気づくと私の両肩は、後ろからの手におさえられている。振りむかずとも誰の手か、そんなことはすぐにわかった。 「ちょっと! 離してくれんかな」 「いや、ちょっと待って……ちょっ、まだ帰らんでくれんかや」 「は? なんでな。帰るよ、なんも用事ねえんやけん。……はなせっちゃ」 「いやいや、帰られたらこまるんよ。たのむけん、ちょっと一緒にきてくれんかや」 「はあ? なんかそれ……、いてえし、はなせっちゃ。なんな! どこか知らんけど、行かんで! ……はなせって」  見れば茅野(かやの)の顔は、ほんとうに困っているようにもみえる。かといって素直についていく気持ちにもなれず、手をふりほどこうと試みてはみた。とうぜん男の力に敵うはずはなく、つかまれた腕がぎしぎしと痛むだけだった。  机にしがみついてみるが、そんなものは何のつっぱりにもなりはしない。扉が近づいてきたのでそれにしがみつこうとしたが、手が滑ってしまいうまく掴むことができなかった。  重心をなるべく低くして、なんとか踏ん張ろうとこころみる。しかしそんなものは無駄な抵抗にすぎず、ずりずりと引きずられるかたちでついに廊下まで連れてこられた。 「ちょ、ちょっと待って! ……どこに行くん」 「どこって……」  廊下にでた茅野は、すぐさま階段にむかって進んだのだ。どこへいくかなどわざわざ訊かずともわかりはしたが、なんとかして彼の歩みを止めたいがための言葉だった。  思惑通りに彼のあしを止めることに成功した私は、すぐに横のてすりに空いているほうの手をからみつける。それをみた茅野は少し渋い顔をして、掴んでいるほうの腕をぐいっと引っぱった。  手すりを離してなるものかと、脇に抱えこむようにしがみつく。鼻の奥を鳴らすように『ふん……』と息をはいた茅野は、私の手すりがわの腕につかみかえると強引にひきはなす。抵抗のことばも態度もむなしく、一段また一段と着実にうえとの距離はちぢまっていく。 「なあ、……うえに誰かおるんやろ」 「ん? ああ。まあ、……おるけど」 「そうやろ? じゃけえ、行きたくねえんやけど」 「誰がおるんかも知らんくせに、なんで行きたくねえとか言うんな」 「誰かしらんけどさ、……けど、なんか怖えんやもん」 「は? なんかそれ、大丈夫っちゃ。べつになんも怖えことなんかせんって。……おい、久我(くが)! 椎名(しいな)、連れてきたで。……おい、久我?」  階段のおどり場までつれてこられた私は、なかば座りこむような状態で進むことを拒んでいた。これ以上うえに進むことは困難だとふんだのか、茅野(かやの)はその場からうえに向かって声をかける。  上からの返答はなく、物音ひとつかえってこない。そこにいるはずだった人物は、もしかしたらべつの場所に移動しているのだろうか。緊張していた私の心に、ほんの少しだけあわい期待がわきおこる。  なんども名前を呼んでいる茅野のよこで、気持ちにゆとりができた私は立ちあがった。よかった、このまま解放される。そう思った瞬間、上でがたっと机が音をたてた。びくっとなった私の足は、まるで床に吸いついたように動かなくなる。  音のほうを見ていると、そこに起きあがった男の姿がみえた。瞬時におおきく肺に息をすいこみ、そのまま息をとめてしまう。すでに足だけではなく、私の全身はかなしばりの状態だった。 「椎名、手……はなすけど、頼むけん逃げんでな。おい、久我……目、さめたか?」 「わりぃ……寝てしまっちょったみたいや」  茅野がむかっていく先に、男がふりかえる姿がみえた。細く剃りととのえられた眉に、一重で切れ長なするどい目つき。  私の知っているかぎりでは、兄の友達にこのひとはいない。正真正銘の、知らない怖いひとだった。  拘束から逃れたいま、逃げるのならば今がチャンスだ。一歩ひだりに足をはこべば、そこからいっきに階下へとにげられる。  勇気をふりしぼるようにおおきく、しかし気づかれないように静かに深呼吸をする。タイミングを見計らうために、私は茅野たちの動きをさぐるべく上をみる。  茅野の肩をよけるように、うえの男がこちらを覗きみていた。うっかりと視線をあわせてしまった私は、そのするどい眼光にふりしぼった勇気を吸いとられてしまった。 『逃げそこねてしまった……』 「……椎名朱里(しいなあかり)?」  自分の不甲斐なさを悔やんでいると、男は確認のように私の名前をくちにした。不意をつかれおどろいた私は、おもわず何度もうなづいてしまう。  そんなとき、したの階から皐月(さつき)の声がきこえてきた。教室に私をむかえにきてくれたようだが、私がいないことに気づき探しているようだ。  クラスの誰かが茅野(かやの)に連れていかれたとこたえ、皐月のこえが興奮気味にひびきはじめる。ここに居るとつたえたいが、おもうように声すらだすことがかなわない。  誰だと男に訊かれたが、即答することはできなかった。運動会で一緒だったやつかときかれ、私はこくりとうなづいた。名前をきかれ一瞬だけためらったが、答えないという選択肢はなさそうに感じてしまう。  皐月に申し訳ないと思いながらも彼女の名前をくちにしたが、どうやら私の声は男のところまでは届かなかったようだ。訊きなおされた茅野のくちから、皐月のなまえが男にわたった。 「よお、茅野。あげえ探しよんけん、椎名はここにおるって教えにいっちゃれの」 「そうやな、そんならちょっと教えにいってくるわ」 「あ、ちょ待て……。あれや、おまえも七瀬(ななせ)……やったかの、そいつとしたで待っちょってくれんか」 「え、下で?」  階段をおりかけていた茅野は足をとめ、男と私を交互にみた。心なしかその表情は、すこしだけ私を気づかっているようにもみえる。  皐月(さつき)に居場所がつたわれば、すぐに駆けつけてくれるだろうと思っていた。その希望がうちくだかれたのだ、おそらくいまの私の表情は絶望にみちているだろう。  ゆっくりとおどり場までおりてきた茅野は、哀れんだように微笑む。泣きたい、逃げたい、だけど足がうごかない。おりていく茅野の背中を、すがるような視線でみおくる。 「……なあ。きゅうに呼びだして、わるかったな」 「…………」 「……なあって! 聞こえちょる?」  茅野の姿がみえなくなるかどうかのところで、階段のうえから声をかけられた。しかしそちらを向くことができずに、私は自分の足もとをみつめていた。  二度目の言葉は、すこしだけ強めのものだった。その口調にとっさに顔をあげてしまい、こちらを見ている男と目があってしまう。男の質問がなんであったか忘れてしまい、おもわず首をよこに何度もふる。  男の眉間に皺がよったところをみると、おそらく私の返答は不正解だったのだろう。まずいと思った私は、なんだかへんな汗をかきはじめた。ただ男のご機嫌をとるためにするべきこと、それは思いつくはずもなく沈黙の時間がながれていく。 『なんで……ここに居るのだろう……。この重苦しい空気は、なんなのだろう……。いったい私が、なにをしたというのだろう……』  容赦なくながれていく時間のなかで、徐々に不安が心を支配しはじめる。用件があるなら早く話してほしい。いやこれ以上の緊張はごめんだ、このまま速やかに解放してはくれないだろうか。  うずまく心の叫びと向きあいながら、どれくらいの時間がすぎたのだろうか。階下が異常なほどに静かになり、皐月(さつき)たちがそこに居るのか不安になる。 「……なあ、もしかしてさ。……おまえって、俺のこと怖がっちょる?」  残酷すぎる問いかけがきこえ、いっきに意識がこの場にひきもどされる。引きつりそうになった頬の筋肉に、ぐっと力をこめて我慢した。  怖いか? 怖いさ! この状況に平然としていられるほど、肝がすわっているはずもない。けれどあからさまにそれをさらけだすこと、それは更なる恐怖を呼びそうでこわい。どうすればいい、自分。考えろ、考えて答えをみちびきだせ。  視線をそらすことすらできずに、必死にこのばの打開策をかんがえる。正解をみつけられないまま強引に口角をあげ、いま自分にできる精一杯の笑顔をつくり、なんとかこの場を乗り切ろうとこころみる。
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