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第1章…06
階下にいる七瀬のもとへとむかって、茅野は階段をおりていく。自分のまえを茅野が通りすぎる瞬間の、あの朱里の不安そうな顔は見逃しはしなかった。
ほかにひとが居ないほうが気が楽なのではないか、そう思った俺の判断はもしかしたら間違っていたのかもしれない。彼女の表情はしずみ、空気もにごったように重くなる。
沈黙にたえられず、急なよびだしを詫びてみる。しかし下をむいた彼女に、反応はなかった。聞こえていないはずはないと思い、すこしだけ声を荒げて訊きなおしてしまう。驚いたように顔をあげた彼女は、おもむろに首を横にふる。
「……なあ、もしかしてさ。……おまえって、俺のこと怖がっちょる?」
彼女の瞳が、ぱっと開いたのがわかった。一見視線はあっているようにみえるが、その瞳は俺をとらえてはいない。意識がここにとどまらず、話が噛み合わない理由に納得がいく。
空をみつめて、さまよう彼女の意識。きっとあれはなにかを必死に考えているのだろうと、焦らずに待つことにした。しばらくして彼女の瞳が、しっかりと俺の姿をとらえる。
くいっと口角をあげてみせ、笑顔のようなものを向けてきた。おそらく本人は気づいていないのだろうが、彼女の目はおもしろいほどに笑っていない。
おもわず吹きだしそうになった俺は、ぐっと腹に力をいれて我慢する。あきらかに俺をこわがっている、そう確信した。
「……なあ。ちょっとだけ、話してもいいかやぁ」
「…………」
むりやり引きあげていた口角が、すとんとさがり視線をそらす。わかりやすく不安を顔にだし、返事をする気配はない。そんな彼女に俺は、「なぜあんなところで遊んでいたのか」と質問をした。
おどり場で立ちつくしている彼女は、不思議そうな顔をしてみあげてきた。なにか言いたそうにも見えるが、なかなかくちを開こうとはしない。ここは黙って彼女の言葉を待つべきだろうか。
「…………あんな、……とこ?」
「え? ……あっ、ああ……。運動会よ、小学校の。幼稚園におったやろ? 俺、向かいの校舎におったけん」
「ああ、幼稚園……。あの幼稚園に行きよったけん、なつかしくて……」
「そうなんや? ……っちゅうかさ、やっと喋ってくれたな」
怖がらせてはいけないと黙って耐えて、やっとの思いで朱里の声をきくことができた。ちいさな声で聞きとりづらくはあるが、あまり高くないその音は耳心地のいい感じがした。
つい嬉しくなり、ふっと頬の筋肉をゆるませてしまう。不安そうにしていた彼女も、こころなしか緊張がほぐれたような表情をみせてくれた。
幼稚園での思い出が、七瀬と重なっていたこと。すっかり忘れていたふたりが、奇跡のような再会をはたしていたことへのおどろき。ゆっくりと少しずつ、ちいさな声で話をしてくれる。
親友の約束をして指切りをし、誓いの盃を焼りんごでしたという。あまりにも自然にでてきた、焼りんごというワード。おもわず俺は、訊き返してしまった。
「焼りんご……すきなん?」
「焼りんご? いや、りんごより、いか焼きのほうが好きよ」
「いか?」
「うん、そう。いつも端っこのほうに店をだしとる、おっちゃんのいか焼きが一番おいしいんで。やわらかいしな、タレもおいしいしな、ほかの店のはかたすぎて噛み切れんけん、すかん」
「噛み切れんって……、決まった屋台があるんや?」
誓いの盃のはなしを照れくさそうにしていた彼女が、いか焼きの話になると真剣な顔になっていた。その熱弁ぶりをみていて、おかしくもあり可愛くもおもえる。
朱里が階下を気にする様子がなくなり、あの強張っていた表情もおだやかになってきた。そんな彼女の姿をみて、俺も拒絶まではされていないのだとほっとする。
高い位置からの太陽の陽ざしが、おどり場にいる朱里のうえにふりそそぐ。その淡いオレンジ色のなかで微笑む彼女をみて、一瞬だけその空間が別世界のように思えてしまった。
「……なあ」
「え、……なに?」
「椎名ってさ、……彼氏とかって、おるんかや」
あまりにも気さくに話をしてくれる彼女をみていて、おもわず心の声をくちに出してしまった。タイミングもなにも考えずぽろりとこぼれた言葉に、彼女はふたたび顔をこわばらせる。
しまった……と後悔しても、聞こえてしまった言葉はとり消せない。ふと思っただけだから答えなくていいと付け足しても、彼女の不信感にみちた眼差しは変わらない。
俺のうかつな質問にたいしての返事はないが、さっきまでの楽しそうなお喋りまでもなくなってしまった。たった一瞬の気のゆるみで、ふりだしに戻されてしまった。
こんなことになるとわかっていれば、茅野たちにこの場にいてもらうんだった。会話のなくなった気まずい雰囲気のなかで、成す術なく俺は頭をかかえこむ。
「……なんで、そんなこと訊くん」
「えっ……」
「だって、今日はじめて会ったんやんか。やのに、なんでそんなん訊くんかなって……」
「なんで……って……。え……、気になった……けんかな」
「気になる? ……なんで?」
「……あ、なんで……。…………気に入ったん……かや」
意外にも、沈黙をやぶったのは彼女のほうだった。しかも俺のほうが思いもよらずに、質問攻めにあったのだ。
彼女の質問にたいして、俺はけっこう真面目にかんがえた。運動会で偶然みかけて、名前をしりたい、好きなひとがいるのか知りたいとおもった。そう、それは『気になった』からに違いない。
しかし彼女にとっては、気になるというのは正当な理由とは認められなかったようだ。さらなる問いにふたたび考え、気になったのは気に入ったからだという結論をみちびきだした。
だがしかしその答えを伝えたとたん、彼女の眉間に皺がよった。まるで変なものをみつけたみたいに、おおきな瞳でじっとみてくる。俺はもっと気のきいた答えを、絞り出すべきだったのだろうか。
朱里は俺に背をむけるかたちで、階段に腰をおろしてしまう。そろえた膝のうえに腕をくみ、じっとしたまま何も喋ろうとはしなかった。
はたして、これは拒絶の態度なのだろうか。彼女のうしろ姿だけでは、まったく読み取ることができない。
「なんか、……ごめんな」
「え、……うん。あ、いや……べつに……」
「おどろかせた……っちゅうか、困らせてしまったかや」
「……えっと…………」
彼女は振りむくことはせず、返ってくる言葉もたどたどしかった。ただこんな状況になって困っているのは、俺も同じなのだ。計画なしのぶっつけ本番、この場の立て直しかたがわからない。
階段のしたに茅野たちの気配を感じ、ひそひそと話しているのが聞こえた。はっきりと聴こえるわけではないが、俺たちのことを気にかけてる雰囲気はわかる。
最上階にいる俺に聞こえるくらいだから、途中にいる朱里の耳にもとどいているはず。なのに彼女は、階下を気にする素振りはみせてはいない。
「あれやな……。もう、かえるか?」
「あ、……う、うん」
「なんか、ごめんな。……急によびだして、長げえこと引きとめて」
「いや、……大丈夫」
ゆっくりと立ちあがり振りかえった彼女の顔は、大丈夫という言葉とは正反対な顔をしていた。すぐに立ち去る気配はなく、ひきつった笑顔でこちらをみている。解放の合図をまつような瞳をみて、ぎゅっと胸がくるしくなった。
これ以上、困らせてはいけない。俺のなかで、なにかがそう働きかける。彼女と視線をあわせたまま口角をひきあげ、軽くうなづいてみせる。彼女はぺこりと会釈をして、視線を階下の方にむけた。
「なあ、彼氏! …………おるん?」
この場を去ろうとした彼女をみて、もう二度と会えないのではないかと感じてしまう。それは大袈裟だとしても、もう会話をすることはないかもしれないと思ってしまった。
訊いてはいけないと思いながらも、抑えることができずに口から言葉はとびだした。おりかけていた階段の途中で、朱里の動きがとまる。
うつむいているので顔はみえないが、おそらくまた捕らわれの感覚におちいっているのだろう。しまった……と思った俺は、「ごめん」と彼女にあやまった。
まったく無反応な彼女に、答えずに帰っていいと伝えようとした。しかし俺が言葉を放つまえに、彼女に微かな動きを感じた。
しっかりとこちらを見たわけではないが、すこしだけ顔をあげたのだ。そして小さく首をよこに数回ふり、残りの階段を駆けおりていった。
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