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第1章…07
あの屋上での出来事から、少しのときが過ぎていた。よくいえば穏やかな日々ではあるが、平凡な毎日がただ淡々とくりかえされていく。
あの日から今日まで、茅野は私のまえに姿を現してはいない。屋上での出来事がなんだったのか、とくに深く考えることすらしなくなっていた。
季節は梅雨へと近づいているようで、ずいぶんと雨の日が多くなってきた。そして今日も、雨はとうぜんのように降っている。しとしとと降る雨をながめていると、なんとなく気持ちまでじめじめとしてくる。
せっかくの窓ぎわの席なのに、べちゃべちゃのグラウンドをみてため息をつく。湿気で少しうっとうしく感じるくせ毛を耳にかけながら、何気なく正門へと視線をうつした。
こんな時間に誰だろうか、正門からおおきめの黒い傘が入ってくる。黒い傘は生徒用のくつばこへと向かい、そのまま私の視界から消えていった。
まもなく午後の授業がおわり、帰るしたくをしながら皐月を待つ。ほかのクラスよりも長引きがちな担任の話を流し聞きながら、廊下にあらわれた皐月に笑みをおくる。
「ごめんな、いつも待たせて。今日はどうする? 皐月んち行……」
「ちょっと、まった!」
「いてえな……。待ったじゃねえし、どいてくれんかや」
「いやいや、話があるけん待って」
担任から解放され、すぐさま廊下でまつ彼女のもとへとむかう。あと一歩で廊下というところで、目の前になにかが立ちふさがった。みれば軽くぶつかってしまったそれは、両手をひろげた茅野だった。
よこを通りぬけようとすると、彼は横移動をして行くてをはばんでくる。廊下側からは皐月が、茅野を競りどけようと踏んばる。
私がどんくさいのか彼がすばしっこいのか、なかなか思うように通りぬけは叶わない。最初はちょっとした遊び感覚で、すこし楽しいくらいの気持ちだった。しかしこうもしつこいと、さすがに苛々としてくる。
「ちょっ……と! めんどくせえ男やな……、どいてっちゃ!」
「ごめんごめん。けど帰られたら困るんよ、ちょっと話があるけん」
「なんな! 話があるなら聞いちゃるけん、はよ言いよな」
「いや、俺じゃねえで……あれよ、呼びよんのよ」
「誰がな!」
「誰が……って、その……うえで待っちょんけん」
うえと聞いた瞬間に、私たちの動きはとまった。屋上で呼んでいるという人物が誰なのか、すぐに見当がついてしまったからだ。おだやかに流れていた時間が、いっきに崩れさっていく。
なんの用事かと茅野にたずねてみたが、自分にきかれても困るとかえされる。それならば行かないと顔をそむけたが、彼は例のごとく手をあわせて拝みはじめる。
皐月と顔をみあわせて、しぶしぶと階段のしたまでやってきた。茅野を横目でにらみながら、彼女とふたりで階段に片足をのせる。
「あ、待って! わりぃけど、椎名ひとりで……」
「はあっ? なんでな!」
慌てたように茅野が叫び、それに対して皐月が噛みついた。ふりかえり廊下にたつ茅野のもとへ、肩をふりながらにじりよる。
彼がいうには上にいる人物が、それを望んでいるらしい。おそらく今のこのやりとりも、うえにいるあの人に聞こえているだろう。長引けば私も面倒くさいし、うえの彼も苛立つだろう。
なさけない言い訳をする茅野と、喧嘩腰の皐月。ふたりをのこし、私は重いあしどりで屋上へとむかう。
机のうごく音がして、おどり場で足をとめた。やはり上から下のようすを伺っていたのだと、その時点でわかった。うえを見ないままに、私はその場で彼の言葉をまつ。
ふたたび聞こえた机のおとに、彼がおりてくると身構えた。階段をおりてくる気配はなく、男は階段の最上段に腰をおろす。
「なあ、……お前ってさ、俺の名前とか知っちょる?」
「…………」
「久我、……久我隼斗っていうんやけど」
「…………」
このあたりでは珍しい名字だとは感じたが、それを言葉にはしなかった。それよりもとつぜん名乗られたことに対して、どう反応をすればいいのか悩んでしまう。
屋上に降りつける雨の音が、やけに耳にひびいてくる。その音は気慰めにはならず、なんとなく煽られているようにも感じた。
息苦しさのなかで、こっそりと男のようすをうかがう。視線があいそうになると、男はふっと口角をあげた。ふしぎと最初にあったときのような、威圧感はあまり感じない。
「……なあ、椎名ってさ、俺のことまだ怖がっちょる?」
「あ、いや……。あまり、怖く……ねえかもしれん」
「かも、か……」
ふっと息をぬくように笑って、天窓のほうに視線をうつす。おおきくひらいた膝のうえに、無気力にあずけられた両手。すっと彼の視線が私にもどり、なにか言いたそうな顔をした。
けっして余裕ではなさそうな表情で、じっと私をみたまま喋らない。ちいさくため息をつくと、膝のあいだに埋もれてしまいそうなほどに頭をさげてしまった。
きっとなにか言いたいことがあるのだろう、しかし私から「なに?」ときく勇気はない。そんな姿をみていると、外見ほど悪いひとではないように思えてきた。
ざわついていた階下が静かになり、残ったのは私を待つふたりの気配だけになる。彼もそれを意識したのか、階下を気にするそぶりをみせた。
「じゃあさ、……もしも、やけどな。……付きあってくれんかって言ったら、……どうする?」
「……え、」
聞こえてしまった言葉の意味はわかった。しかしそれをくちにした、彼の真意がわからない。名乗りに続く唐突な言葉は、私をからかっているのかもしれない。
冗談にしては、空気が重すぎる。だけど本気で言っているとも思えないこの急すぎる展開に頭がついていかない。笑って流すこともできず、「なにそれ」と訊きかえす度胸もない。
階下の気配にすがりたい思いをこらえ、ちらっと男の様子をうかがってみる。落ち着きをよそおっている彼だったが、その瞳は私に早く返事をしろと訴えているようにもみえる。
「……嫌だ? まあ、やっぱそうやわな」
「え、あ……。嫌だってわけじゃ……ねえんやけど……」
「うん、……え! えっ? ……いいってこと?」
「……え?」
いいとか嫌だとかの、そんな段階まで思考は至っていなかった。なにをどう言葉にすれば、会話が成立するのかすら考える余裕はない。彼の表情はすでに、良い返事のほうこうで期待に満ちているようにみえる。
嫌というわけではないと答えたことは、けっして嘘ではない。しかしだからといって、知り合ったばかりで付きあうというのはありなのだろうか。思いもよらない展開に、どうすればいいのかわからない。
最上階から、私を追いこむように視線がふってくる。愛想笑いをしてみるが、それではやり過ごせそうな雰囲気ではない。時間が経てばたつほど、気まずさも増していく。
私たちの沈黙に気づいてか、階下のふたりがひそひそと話をはじめる。おそらく心配をしてくれているのだろうが、それが逆に私にとっては焦りにつながった。
彼も階下の様子をすこしだけ気にしたが、すぐに私のほうに視線をもどす。彼の切れ長の瞳から放たれる視線は、言葉よりもするどく返事を催促しているように感じる。
言葉はなく目をほそめ、『どうなん?』といわんばかりに首をかたむける。私の頬の筋肉がぴくっと反応してしまい、なにも考える余裕をあたえられず頭を縦に振ってしまう。
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