第1章

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28b7eb76-0e1f-4875-8107-7928c35806f8 第1章…08  朱里(あかり)に彼氏がいないと知ったあの日から、なぜだか気持ちが落ちつかない。いつもの仲間とつるんでいても、いままでのように心から楽しいと感じることができなくなっていた。  ふとしたときに彼女のことを思いうかべてしまい、胸のあたりがもやもやとしてため息に変わる。だからといって彼女となにをしたいとか、どうして欲しいなどのはっきりとした願望のようなものはうかばない。  梅雨が近づいているのだろうか、今日も朝からうっとうしい雨がふっている。窓をあけていても逃げない煙のせいで、煙草くさい六畳の和室。  灰色の空からおちてくる雨の粒が、コンクリートのベランダに水たまりをつくる。ちいさな水の波紋をながめていると、がらにもなく切ない気持ちになった。 「なあ、茅野(かやの)。……あいつ、なにしよるとおもう?」 「あいつ? ……なん、あいつって誰な」 「ん? ……ああ、椎名(しいな)のことよ」 「え、なにしよるって……。ふつうに学校にいっちょるやろ」 「うん、まあ……そうやわな。学校やわな」  当然、そうだろう。彼女は俺たちとはちがい、ふつうに学校に行っているにきまっている。そんなことはわかりきったことなのに、思わずどうしているだろうなんて思ってしまい、それをくちに出してしまった。  壁に背をあずけたまま、こちらを見ようともしない茅野。彼の視線は手もとの漫画にくぎづけで、俺の話にさほど興味はなさそうだ。 「……なんな、そげえ見られたら気になるやん」 「いや、べつに……」 「なん、べつにって。そんなら、そげえ見んなの、気がちる」  俺の話をふくらませてこないことに、べつに不満があるわけではない。ただ関心なさげな彼の横顔を、ぼんやりと見ていただけなのだ。  茅野は俺が視界にはいって気がちるといって、不服そうにこちらを睨んだ。俺自身も続きの言葉があるわけでもなく、茅野と話したいわけでもない。  ふんっと軽く笑って手ではらう仕草をすると、彼もふんと鼻をならし手もとの漫画に視線をもどす。それを見届けてから俺は、ふたたびベランダで跳ねる雨の粒をみつめる。 「……なあ、久我(くが)さぁ。そげえ気になるんやったら、行ってみりゃいいんじゃねえん」 「……どこにいくん」 「どこにって、学校以外に椎名(しいな)のいくとこ、知らんじゃろ」 「ああ、そっか……そうよな。じゃけど、いきなり行ったらびびるんじゃねえかや」  ページをめくる音が聞こえなくなり、なんとなく視線をかんじる。振りむくとあきれた顔の茅野が、俺のことをじっとみていた。俺と目があうと漫画をほうり、身体ごとこちらを向いてあぐらをくむ。 「久我さあ、……椎名と連絡とか、とれるっけ?」 「いや、番号もなにもしらんな」 「……でなあ? んじゃさ、どうやって前もって行くって言うつもりなん」 「……そうよな」 「じゃろ? びっくりしょうが何しょうが、いきなり行くしかねえやんな。俺が呼びにいっちゃんけん、久我は屋上でまっちょきゃいいやん」 「んで? 会って……どげえせっていうん」 「……は? 気になっちょる……っていうか、気にいっちょんのやろうもん。……告るとかすりゃいいじゃん」  ふざけているのかと思ったが、茅野の顔は至ってまじめだった。なにをしても心ここにあらずの俺といて、おもしろみに欠けるのだと苦笑う。  異性として彼女を意識していることは、俺の様子をみていれば明らかだという。そんなはずはないと反論すると、その煮えきらない態度に苛々するという。  たしかに自分自身も、このもやもやした気持ちでいるのは心地よいものではない。だがいっそのことさっぱりと振られてくれという茅野の言葉には、少しばかり苛っとはした。  そして彼は続けてこういった。振られてしまえば諦めがつき、胸のつかえもとれるだろう……と。残酷な言葉ではあるが、たしかに茅野の意見にはいちりある。  放課後の時間帯にあわせ、俺たちは学校へとやってきた。屋上の机のうえ、低い天井に雨のあたる音がひびく。そこへ寝転がり、茅野が彼女をつれてくるのを待つ。  俺が連れてくるといきおいよく走った茅野だが、ほんとうに彼女を連れてくることができるのだろうか。階下にはざわざわと、下校をしていく生徒がざわつきはじめた。  なかなか彼女がやってこないことに、計画は失敗かと不安がよぎる。しかし茅野が戻らないということは、彼女と会うことには成功しているのだろう。あとは彼の頑張りを期待して、信じて待つことしかできない。  しばらくすると階下で、茅野と七瀬(ななせ)の言い合いがはじまった。どうやら茅野が言っていたとおり、七瀬という人物は気が荒いようだ。  ふたりの口論のさなかに、階段をのぼりはじめた気配をかんじる。小さくひびくスリッパの音は、おそらく朱里(あかり)のものだろうと思った。  まさかひとりであがってくるとは思っておらず、おもわず机から跳びおりてしまう。せまい空間におおきな物音を響かせてしまい、彼女のことを驚かせてしまった。 「ごめん、びっくりしたでな……」 「…………」  朱里は首を横にふっているが、顔は十分におどろいたと物語っていた。失敗をごまかすように俺は階段に腰をおろしながら、自分の名前を知っているかと問うてみる。  彼女は一瞬ふしぎそうな表情をして、ふたたび首を横へとふった。あの日会ってから今日にいたるまで、彼女は俺の名前を知りたいとも思わなかったのだと軽くショックをうけた。  ためしに俺の名前を告げてみるが、困ったような顔をしてなにも反応はしてくれない。きっとまだ怖がっているのだと信じたかったが、彼女のくちからは怖くないという答えが返ってきてしまう。  これは単純に、興味のない男の呼び出しに困っているということか。なかばやけくそになって、俺は付きあってくれと言ってみた。とうぜん返事などもらえるはずはなく、呆気にとられたような顔をされた。  それはそうなるだろう、最初があれで二回目がこれだ。この男はなにを言っているんだ、そう思われても仕方のないことだ。大丈夫、これはすべて想定内の反応だ。  断るにしても彼女のことだ、すぐに言葉にはしないだろう。その心づもりはあったのだが、思っていたよりも長い沈黙になってしまった。  時間がたちすぎて言い出しづらくなったのだろうと、断るきっかけを与えるように声をかける。思っていたのとはちがった彼女の返事に、俺の思考がぶっ飛んだ。 「なあ、久我(くが)……、まだ、はなし終わらん?」 「ん、……ああ……いや……」 「……まだなんや? そんなら、もうちょっと下で……」 「いや、はなしは終わったけん」 「え……、ほんとに?」  ようすを見にあがってきた茅野(かやの)は、俺たちの距離関係をみて微妙な顔をした。彼のうしろにいた七瀬(ななせ)は、不安そうに朱里(あかり)をみていた。  返事はどちらだったのか、茅野はそれを訊きたそうな顔をしている。しかし聞くのがこわい、そんな戸惑いもみてとれる。  七瀬は俺になど目もくれず、まっさきに朱里(あかり)のもとへと走りよった。心配するように彼女の顔をのぞきこみ、寄り添うように片手を背中へとまわす。  これではまるで、俺が彼女をいじめたみたいだ。そんなことを思いながらも、ふっと頬がゆるんでしまう。おどり場のふたりの横をすりぬけ、茅野が俺のほうへと向かってきた。  言葉にはしないが、その目は俺に問うている。俺も声にはださずに、茅野に目配せしながら得意げにうなづいてみせた。 「え! ……うそやろ、ほんとうなん?」 「ん? おお、……まあな」 「まじか……、ありえん。けどまぁ、あれやな……よかった、んかな。ようわからんけど。っちゅうか、いつまでもここおってもあれやし、……とりあえず……ここ出ろうや」 「そうやの、ここおっても……することねえけど、……どこ行くか」  おどり場では、七瀬がこちらを睨んでいた。おそらく朱里からは、まだなにも聞いていないのだろう。七瀬に抱きよせられた朱里は、気まずそうに眉尻をさげる。  いますぐに朱里を解放しろ。そう言わんばかりの、七瀬の気迫をかんじる。おそらくここで茅野がなにか言えば、間違いなく七瀬は噛みつくだろう。 「あれやな、……久我(くが)んちでもいくか。なあ椎名(しいな)、おまえらも行くじゃろ」 「ちょっと、なんで朱里(あかり)が行かんといけんのな!」 「え、だって……あれやん」 「あれって、なんな!」  思ったとおり、茅野(かやの)七瀬(ななせ)がかみついた。予想どおりの展開に、俺はおもわず吹きだしてしまった。茅野が、ちらっと横目で俺をみる。俺は他人事のようにおどけた顔をしてみせた。  そんな俺たちの態度が気にいらないのか、七瀬の眉間に皺がよる。いまにも踏みだしそうな七瀬の腕を、朱里がつかんで首をふる。  ただひとり状況の把握ができていない七瀬。そんな彼女を挑発するわけではないが、俺と茅野は黙って階段をおりていく。  おどり場までおりていくと、朱里(あかり)をかばうように七瀬は彼女の前にでた。そんな七瀬を透かしみるように、俺は朱里に視線をむける。 「……いくで」 「えっ、……あ、……うん」  朱里の反応に、七瀬は素早くふりかえる。彼女と目があった朱里は、気まずそうに苦笑いをした。  おどり場から階下へむかう俺のあとに、茅野も急いでついてくる。納得がいかないような七瀬にむかって、茅野はしたり顔で顎をつきだした。  俺たちの後をおうように朱里が一歩踏みだすと、七瀬もあわてて朱里のうしろについた。どっちつかずの心境なのか、何度もふりかえる朱里。それでも確かにうしろについてくる、ふたりの気配にこそばゆさをかんじる。  廊下や教室には、すでに生徒の姿はない。余計な声も視線もないせいか、俺たちのスリッパの音がやけにひびく。自分のものではない音が、彼女たちの存在をつよく主張してくる。  くつばこで彼女と目があい、照れくさそうに逸らされた。ああ本当についてきているんだと再認識させられたが、自分の彼女になったんだという実感は、正直なところまだ掴みきれてはいない。
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