1人が本棚に入れています
本棚に追加
矢尾和奏
「湯川くん、この前はありがとうございました」
登校して早々、矢尾和奏は着席すると、隣の席の男子に向かって深々とお辞儀をした。
「矢尾さん、退院できたんだ。身体は大丈夫なの?」
「うん。立ち眩みすることはあるけど、運動とかは控えていれば大丈夫でしょうって、お医者さんが言ってた」
「ふうん。良かった」
彼女は生まれつき心臓が弱い。日常生活は送れるけれど、心臓に負担をかけないように誰よりも気をつけなければならなかった。
それは、梅雨真っ盛りの昼下がりのこと。その日の天気予報は晴れのち曇りを報じており、午後の雨は予定外だった。傘を持っていなかった矢尾和奏は、小雨がポツつき始めた帰り道を足速に歩いていた。
「あれ? ない!?」
漸く家が近づいてきたところで、彼女はスマートフォンを学校に忘れてきてしまったことに気がついた。手帳型になっているカバーには、キャッシュレス決済用のカードも入っていて、濫りに放置しておけない代物だった。彼女は雨に濡れるのを覚悟で踵を返し、小走りで学校へと駆け戻っていった。
矢尾和奏は、心臓に負担のかかることをしてはいけない。彼女は少し走るだけでも、息が切れやすかった。加えて、高温多湿の環境では、心拍数が上昇しやすい。リュックを背負って学校へと駆ける彼女の身体からは水分が放出されていき、雨よりも多量な汗を纏って制服が肌に張りついていた。
「心拍数が上昇しています」
ヘルスケアのために装着している左腕のウェアラブル端末が注意を促す。矢尾和奏はそれよりも、学校に置き忘れてきたスマートフォンが誰かに盗み取られていないか、そんな不安が頭の中を占めていた。
「心拍数が異常です。すぐに安静な状態に落ち着いてください」
端末の注意喚起が警告に変わり、矢尾和奏は漸く自分が危険な状態に瀕していることを理解した。
「心拍数が異常です。119番に通報しますか?」
このままでは、自動設定で通報が入ってしまう。一旦落ち着いて、通報解除の措置を取ろうと歩みを遅めたその時、彼女は脚が縺れて転倒してしまった。
「い……たた……」
矢尾和奏の心臓は、依然として異様な速さの脈を打っていた。肘と膝の出血を目にしたがために、身体への危機感が加速していく。立ち上がろうにも、傷が痛んで力が入らない。
一転、やはり119番に頼ろうと左腕を手繰るも、そこからの警告音声はピタリと止まっていた。腕を地面についた際の衝撃で、端末が故障してしまったのだ。
「だれか……助けて……」
過呼吸で倒れたままの矢尾和奏は、藁にも縋る思いだった。生憎、彼女が居た場所は大通りからは離れ、人気の無い場所だったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!