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弱々しく彼が笑い、俺は踏み入ってほしくない彼の領域に入ろうとしているのだと知った。
すぐにふくよかなコーヒーの香りが漂い出す。
店内にひとり、年配の男性客がいたが、どうも彼はうたた寝しているようだった。
「この店はね、僕と僕のパートナーの昭雅が始めた店なんだ」
カウンター席に座る俺の前にコーヒーを置き、自らも淹れたコーヒーを傾けながら大橋さんが話し始める。
「昭雅は昔から喫茶店をやるのが夢でね。
それで早期退職して、ふたりでこの店を始めたんだ」
抑えめにかかっているジャズに、大橋さんの静かな声が溶けていく。
伏せ目がちに語られる話を、俺は相づちすら打てずに聞いていた。
「念願の喫茶店だ、昭雅は張り切っていたよ。
でも軌道に乗ってこれからってときに病気が見つかって。
この店を開いて三年目に、僕を残して逝ってしまった」
淡々としたしゃべりだが、その目尻は光っていた。
それを見て、俺まで大事な人を失ったかのように胸が痛む。
「三回忌も済んだしね、これ以上この店にしがみついていてもつらいだけだから、閉めようと思ってたんだ」
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