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1 風の歌う島
風の歌う島と呼ばれるその島には、良き風の精が住んでいた。
彼女は春には恵み豊かな風を送り、冬もおだやかな風を吹かせて、島民たちを喜ばせた。その人柄のようにどこも荒いところのない風は、長いこと島を守ってきた。
でも彼女は、島が見渡せる高い月桂樹の上にぽつんと座って、いつもひとりでいた。島民たちが呼びかけてもほほえんで手を振るだけで、そこから降りてくることはなかった。
そんなある日、島を嵐が襲った。
風の精は月桂樹の上から跳び上がり、珍しくも怒声を響かせる。
「ワルド! この島に入るときは静かにと言ったはずだ!」
雨雲の渦に座して島を見下ろしていた雨の精は、風の精に振り向いてゆるりと笑う。
「すぐに会いたかったんだ。サーリャ、元気そうじゃないか」
雨の精は、豊かな黒髪としなやかな手足に紫水晶の腕輪をまとった、あでやかな青年だった。サーリャと呼ばれた風の精は一瞬口ごもり、少し声を落として言う。
「元気だよ。ここが気に入っている。村の人たちは、いい人ばかりだ」
「でも寂しい?」
雨の精はそう言って、一回り年上の目線で風の精に諭す。
「ひとりでいれば誰でもそうなる。風も雨も、旅するものだ」
「旅……」
「一緒に南へ行こう、サーリャ」
雨の精はふいにささやくように言った。
「原初の海を見に行こう。命の生まれるところ、やがて還るところ。私もサーリャもそこで生まれた。……またそこで、新しい命を育まないか?」
風の精は彼の言葉の意図を察して、難しい顔をした。
風の精は短く切りそろえた髪を自分で触って、少年のようなそっけない体型の自分を見下ろす。
「物好きだね、ワルド。もっと美しい精たちを見てきただろうに」
「サーリャはこれから美しくなる。長いこと見てきたからわかるのさ」
雨の精は雨雲の渦を旋回させて、サーリャの飴色の髪に触れた。
「雨が上がる前に答えを聞かせてくれ」
一瞬優しく髪を撫でられて、サーリャには切ないような思いがした。
辺りには雨の精がもたらした雨で、街も草木も静まり返っている。もう彼がやって来たときのような激しさはなく、やがては草木の芽吹く恵みとなるだろう。
サーリャは月桂樹の上に座って小さくため息をついた。
雨の精は……強引なところがあるけれど、優しいと知っている。動物や花とは違う、少し特別な好き……という感情を持つ。
でもここを離れたら、守のいない島になってしまう。サーリャにできることはそれほど多くないけれど、それでもできることはあったはずだった。
「サーリャ、今日は歌わないの?」
そんな折だった。ふいに月桂樹の下から声が聞こえた。サーリャが見下ろすと、そこに十歳ほどの子どもが雨宿りをしてこちらを見上げていた。
「サーリャは良き精、歌う風の精。僕が生まれる前からずっと歌ってきたって」
その男の子はふいに苦笑して言った。
「でもサーリャはひとりで、ずっとがんばってきたんだよね。お父さんやお母さんや、友だちがいるところに、帰りたいときだってあるよね」
その言葉は、サーリャの心にすっと染みこんだ。
自分は、寂しかった……のだろうか。帰りたかっただろうか。
……そうかもしれない。サーリャはくしゃりと顔を歪めてうなずく。
サーリャは月桂樹から降りてきて、男の子に言う。
「また戻って来るから。少し……旅に出ていいかな」
「うん。また歌を聞かせてよ」
サーリャはそれを聞いて、ふわりと空へ舞い上がった。
雨を浴びながら、島の人たちへ今までの感謝をこめて歌う。
雨が上がる頃、風の精はもういない。
それは島の人たちに寂しさをもたらしたけれど、日々風は吹き、嵐はやって来る。
けれど風の精が消えた時間は、それほど長くなかった。
いつかの未来、大人になった少年が月桂樹の下で雨宿りをしていたときのことだった。
月桂樹の上から、楽しげな少女の声がかけられた。
「あなたがお母さまと約束をした少年?」
飴色の髪に紫水晶の腕輪をつけた少女はいたずらっぽく笑う。
「さぁ、雨が止んだら。初めての風の精の仕事だわ」
そうして彼女は青年に、いつかサーリャが口ずさんだ歌を聞かせてくれたのだった。
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