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第11話 滑走
最後の音を押さえた後も、翠は鍵盤から指を離さず、鍵盤を見つめたままだった。
まるで氷細工の彫像みたいだ。『打上花火』がこんなにも悲しいメロディーだったなんて・・・。
立ち尽くす慧は、演奏が終わった事にも気が付かなかった。翠は鍵盤から指を離し、涙を拭う。そして、
ガタ
椅子を引いた。その音に我に返った慧は無意識に手を叩いた。
拍手の音にビクッとした翠は、涙の残った目で慧をみつめた。これまで見られていた事に全く気が付いていないようだった。先に口を開いたのは翠だった。
「えっと、あんた、・・・」
「ごめん。あまりにも迫力あったって言うか、感情が籠っていたというか、要するに上手かったから、声も掛けられなかった。ごめん、盗み聞きみたいになって」
翠は頬を赤らめた。
「いえ、ありがとう、聴いてくれていて。ごめんね、変なとこ、見られた。えっと、誰だっけ?」
「あ、俺、當麻 慧。1組なんだけど、朝、電車、同じだったよね。それで避難訓練の時は有難う。4組の秋丸 翠ちゃんだよね」
「え、う、うん。そう、秋丸 翠です」
翠は楽譜らしき薄いクリアファイルをリュックに入れながらブースを出て来る。そして慧に問うた。
「その格好は、ロードバイクに乗ってる、とか?」
「ああ、そうなんだ。趣味と言うか道楽というか」
「へぇ。気持ちよさそうだよね。あたしもいっぺん乗ってみたい」
意外な言葉。慧は自転車乗りらしく、即座に反応した。
「あ、あるよ、レンタルで。ここで借りて、駅で乗り捨て出来る」
「そうなの? こんな格好でも乗れるもの?」
「全然大丈夫。ヘルメットとか借りなきゃだけど」
+++
レンタサイクルコーナーでレディースモデルのロードバイクを借りた翠は、駐車場の端っこで慧に簡単なレクチャを受けて、すぐ器用に乗りこなした。
「こんなに軽いとは思わんかった」
「だろ? みんな言うよ、アシストないのに坂が登れちゃうって」
「判るかも」
「じゃあ、先浜駅まで走ろうか。先浜駅って判るよね。いつも乗ってる電車の始発駅」
「うん、判る。今日はそこからバスで来たから」
「OK。駅までほとんど下りだからスピード出過ぎないように気をつけて。それからブレーキは後輪から掛けてね。前だけ掛けると自転車がつんのめって一回転しちゃうから」
「へぇ」
二人は走り出した。最初は慧が先行し、途中の直線で翠を先に行かせる。翠は本当に上手に乗りこなしていた。カーブでのリーンの掛け方など初めてとは思えなかった。
「秋丸さん、本当に上手いね」
慧は後ろから声を掛ける。
「だって、前の学校、原付で通ってたから。二輪って基本は一緒っちゃ」
「原付?」
「そう。田舎だから、バス少なくて、って言うか、バス廃止になりそうだったし」
「そうなの?」
何だか新鮮だ。バイクで颯爽と走る秋丸さん、見てみたい気もする。
自転車はやがて先浜駅に到着した。レンタサイクルコーナーに自転車を返却して、翠は改札口へ向かう。
「當麻君、爽快だった。こんなの久し振り。ちょっとすっきりした。ありがとう」
頬の水晶の痕をそのままに、彼女は軽やかに改札を越えた。ロードバイクで坂を駆け降りながら、水晶の破片を捨て置いて来たのかも知れない。
涙の理由なんて・・・聞かなくてもいいや。慧はどこか儚げな翠の背中を見送り、思った。
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