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第15話 ストリートピアノ
黒い仔馬は30分以上かけて道の駅に到着した。ピアノ伴奏とは違って翠の運転は極めて慎重だった。
バイク駐車場でエンジンを切った翠は、左足でスタンドを出し、慧に声を掛ける。
「いつまであたしを抱きしめてんの? もう降りていいけど」
お、おっと…
慧は慌てて手を放し、そろりと後ろに降りる。ヘルメットを脱いでいる間に翠はバイクをロックし、ヘルメットをホルダーに掛けた。
「えっと、このヘルメットはどうしたら…」
「ああ、もらうよ」
翠はヘルメットを受け取るとミラーの上にすぽっと置く。
「それでいいの?」
「ええよ。大したヘルメットじゃないから、誰も盗らんよ」
そう言うと翠はすたすたとインフォメーションの建物に向かい、慌てて慧も後を追った。
翠は常連になっているらしく、インフォメーションのお姉さんと言葉を交わすと、その奥のガラスブースに入ってゆく。
「あ、當麻君、どうする? 中に入る? 外でも聞こえるけど。って知っとるよね、前に聴いてたから」
「う、うん。外で聴いてる」
「そ? 同じ曲で申し訳ないけど一回だけ弾かせてね」
そう言うと、翠はくるっとピアノに向かい、蓋を開け、キーカバーを丸め、椅子を引いて座った。
そして手を組み合わせ、鍵盤に向かって頭を垂れた。何のお祈り? 慧には訳が判らない。やがて顔を上げた翠は両手を鍵盤に置いた。
♪♪♪♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪♪♪♪
聞こえてきたのは今日の午後、講堂で聴いた『打上花火』だった。少しアレンジが異なるようだ。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
慧は浜辺を思い浮かべた。浜辺に一人立ち尽くす翠の姿を。
夏のワンピースに足元はサンダルで、踝まで砂まみれ。麦わら帽子の鍔を上げて海を眺めている。やり切れない淋しさを感じる翠の背中。慧はその想像図に胸を締め付けられた。本来は明るい海の筈なのに。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
きっと彼女の中でも何かが終わっていないに違いない。ピアノの音は昼間のように激しく拡がることはなく、穏やかな波のように流れてゆく。
演奏する彼女は、落ち着いて、その瞳に水晶が盛り上がることもない。
秋丸さん、翠ちゃん。キミは一体何を抱えているんだろう。俺では和らげて、いや消し去ることが出来ない何かなのだろうか。慧の胸にも白く泡立つ波が押し寄せる。
♪『もうーにどとーかなしーまずにー すむようにー』♪ ※
そう、その通りだ。キミがもう悲しまずに済むように。水晶の破片が飛び散らずに済むように・・・
悲しみの理由も引き波と共に消えてゆけば・・・、いや、実は悲しいのかどうかさえ知らないのだけど。
漆黒の空に浮かんでは消える大輪が、五線に乗って漆黒のピアノから流れ続ける。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
出会ってまだ3ヶ月も経っていないけど、もう十年くらい経った気がする。キミに温かな未来があることを願う。俺みたいな平凡な男にもそう念じさせるほどの濃い時間だったんだ。あの、毎朝の電車のドアの傍は。
慧はピアノの音粒を聴きながら、自分の気持ちを確認していた。祈るだけじゃなく、何ができるのか…。後ろにいるだけじゃなく、どう向き合うのか・・・。
メロディが耳を通り過ぎる。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
エンドレスな時間をキミに捧げることが出来たなら、俺はこの時間を永遠に繰り返してもいい、俺なりの結論が出るまで。
♪♪♪
「終わったよ」
うわ!
慧は我に返った。
※ 歌詞引用 米津玄師 打上花火(JASRAC管理楽曲)
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