第16話 バリア

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第16話 バリア

「全然気づかなかった」 「それってどういう意味? (はま)り込んでいたのか、全く耳に入っていなかったのか」 「勿論嵌り込んでたんだよ。講堂でもそうだったし、今もそう。秋丸さん、本当に上手だと思う」  翠は歩き出した。慧はまた慌ててついて行く。 「ありがとう。あたしの演奏、うるさ過ぎって結構言われるから嬉しい。ね、秋丸さんって余所(よそ)行きだから名前で呼んでよ、翠ちゃんって」 「え、いいの?」  インフォメーションのお姉さんに会釈して建物を出た翠はくるりと慧の前に立ちはだかった。 「その代わり、あたしも名前で呼ぶ。名前、何だっけ?」 「ケイだよ。字は、変な字なんだ。えっと、流れ星の彗星の『すい』の下に心をつける」 「あー、何となく解った。訓読みって何て読むんだっけ」 「ハズイけど、『かしこい』とか『さとい』とか。だから名前は『さとし』って読む人も多い」 「なるほどね。説明に苦労するヤツだ。あたしも『羽』の下に卒業の『卒』って言うと大抵の人は縦に長細い字を書くの」 「判る! 何だっけ、カワセミって字じゃないの?」 「よく知ってるね。緑って意味もあるから」 「へえ、きれいな名前だね」  翠は少し頬を赤くした。 「お父さんがつけたから。ね、どこかに座らない? 流石に今日はちょっぴり草臥(くたび)れた」  二人はイートインの席に着く。慧はココアを二つ買って来た。 「安いけど、これ、演奏のチケット代の代わり」 「ありがとう。転校していきなり文化祭で伴奏するとは思わなかった。結構ゴタゴタだったし」 「ふうん。今度、蒼馬にゴタゴタ聞いておくよ」  翠がココアに口をつけるのを確認して、慧は思い切って切り出した。 「あの、高校で転校って珍しいよね。親が転勤とか?」  翠はカップを置く。 「ううん、ちょっと違う。叔母さんのところに下宿してるから」 「へぇ」 「いろいろ事情があってね。家はちゃんとあるから」  そう言って翠はまたココアに口をつける。慧は薄いバリアを感じた。毒親、虐待、DV・・・、世を騒がせる言葉が次々に浮かぶ。こんなきれいな()に対して? やっぱ聞けないな。翠は少し離れた窓からじっと外を見ている。太平洋の大海原、夕暮れの陽をところどころで照り返す紺青を。 「ね、慧クンは毎朝海を観察してるの?」 「え? なんで判ったの?」 「だって眺めてる感じじゃなかったし、時々ブツブツ言ってたし」 「まじ?」 「最初は、危ないヤツかと思ったよ。やっぱ都会にはこういう子がいるんだって」 「ごめん。一応毎日の海の状況を記録してんだ」 「状況って?」 「波の様子とか色とか」 「なんで?」 「ん-、まあ、いつか何かで役に立つかなって。データ化しておいたら、他のデータと付き合わせてAIが考えてくれるかも知れないでしょ。そうしたら地球環境とか災害対策とか、どこかで使えるかもって」  翠はココアの残りをくいっと飲んでカップをタンと置いた。 「ふうん、災害対策か。じゃあ明日からも?」 「え、うん。一応」 「じゃ、窓際譲らなきゃね」  慧は慌てて手をブンブン振った。 いてっ! 「無理せんでね。全治1ヶ月でしょ」 「あ、ああ、大丈夫。それで、窓際も大丈夫だから。翠ちゃんの後ろからで充分見える」 「そ? じゃあ・・・」  翠の目がしばらく泳いだ。 「じゃあ、先浜駅まで送ってくよ」  会話はプツンと途切れた。先浜駅までのタンデムでも、翠は全く喋らなかった。  少しバリアが厚くなった・・・。慧は自らの無力に落ち込んだ。
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