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第19話 心の綱引き
結浜駅のホームで電車を待つ翠もまたモヤモヤしていた。好かれることは嫌なことではない。しかし意に反する相手から好かれると言うのはなかなかしんどい話だ。相手を傷つけるのは勿論本意ではないが、断ればどうしたって傷つくだろう。今日はまだマシだった。単に誘われただけで告られた訳じゃない。
だけど・・・、翠は行先表示器を見上げた。早く来ないかな、先浜行き。彼が追いかけて来て更に迫られたら、あたし、どうするのだろう。これ以上ややこしい話を抱えたくない。電車に飛び込んだら・・・、お父さんとお母さんの元へ行けるのだろうか。確実に判っているのなら、周囲の迷惑や悲しみを考えなければ、それも一つの身の処し方だ。これまで考えたことないかと言えば、正直そうではない。飛び込み先は電車ではなく、海だったけど。
後で足音がした。慧が追いついたのだ。翠は恐々振り返る。
あ・・・
「翠ちゃん、だ、大丈夫?」
「え、うん、まあ」
翠は考えた。そう、稲垣君は聞いていた。『気になる奴がいるのか』と。
気になる・・・。
確かに気になる。名前呼びする彼との間合いをもう少し詰めれば、稲垣君だって諦めてくれるかも知れない。一緒に海を研究中だからって言い訳もできる。
「慧くん。毎朝電車から見て観察している海の記録、教えて」
は? いきなり何? 稲垣のヤツ、そんなこと言ってるのか? なんでヤツの為に俺が身を切らねばならんのだ? 慧は早とちりした。翠の意図も聞かずに即答してしまった。
「嫌だよ」
「え? なんで?」
「だって・・・、あれは俺がずっと毎日コツコツ積み上げてるものだから、そんな簡単にひょいと渡せるものじゃない」
翠は慧を見つめた。毎朝共有しているつもりだった。あたしの一方的な思い込みなのか。単に、毎朝同じ方向を見ていただけだったのか。あたしが来る前から慧くんは観察を続けているのだから、無理ないのかも知れない。それに、あたしの態度に問題があるのも判っている。慧くんには随分不躾だったのだ。このタイミングで我が身に跳ね返ってくるとはね、お笑い草だよ、翠。
「そ、そう・・・。だったらいい」
翠はまた前を向いた。そしてすぐに滑り込んで来た電車にさっさと乗り込み、車両の前の方まで歩いて、座席に蹲った。
慧は慧で無神経過ぎた。なんで稲垣はそんなことに関心を持ち始めたのだ? 俺への当てつけか? 海は俺のテリトリーなんだ。稲垣は音楽をやっていればいい。翠ちゃんと一緒に・・・。でも、一緒にって、本当にそれでいいのかよ。
逡巡した慧は、電車に乗り込めなかった。
翌朝から7時40分発の電車の指定席に、翠の姿は見られなくなった。
+++
翌日の終業後、さっさと帰ろうと立ち上がった翠に沙奈が声を掛けた。
「翠ちゃん」
「ん?」
「ちょっと話していい?」
「いいよ」
沙奈は、周囲を確認する。幸い正大は部活に行ったらしく姿が見えない。
「あのさ、何となく感じてるんだけどさ、稲垣君」
「稲垣君?」
「うん。私、いいと思うよ。結構女子に人気なの、知ってるでしょ? 吹部でさ、指揮だけじゃなくて実はヴァイオリンも上手いんだって」
「ふうん」
「その割に偉そうにしないしさ、吹部でも後輩女子とか男子からも慕われてるって」
「それがどうしたの?」
翠は半歩下がった。唐突で不自然な話にはウラがある。沙奈は翠の感情を読み切れず、そのまま畳みかけた。
「お似合いと思うよ、翠と稲垣君。美男美女カップルだし、翠もきっと張りが出るよ?」
翠は眉を顰めた。
「沙奈、何が言いたいの?」
翠の低い声に沙奈はびくっとした。何か変なこと言ったかな。
「何がってそのままの意味だけど。昨日二人で話してるのが、ちらっと聞こえたんだ。それに文化祭で指揮者やってから、稲垣君って翠のことをちらちらよく見てたし、判りやすいのよ」
「だから?」
「だから・・・って、えっと、翠は告られたのよね? 付き合ったらどうかなって」
ガタン。翠は椅子を仕舞う。
「そう言うの、余計なお世話って言うの」
「え?」
呆気にとられる沙奈を置いて、翠は大股で教室を出て行った。
そんな光景を、萌音が教室の隅からこっそり見ていた。
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