異質の邂逅 一

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「おい、何突っ立ってる! このオレの前で堂々とサボろうとするとはいい度胸だな!」 「え!?」  店主からの乱暴な声掛けではじめて置いていかれかけていることに気付き、慌てて店を出る。目当ての後ろ姿は、既にすぐそこにある薄暗い曲がり角の向こうへ行こうとしていた。 「ちょ、ちょっと待って!」  見失ったら最後、仕事がこなせず店主に酷い目に遭わされる。ネイサンは慌てて声をかけその背を追いながら、前言撤回だ、と胸中で呟いた。自分で雇った相手を平気で置いていくような奴が、まともなわけがない。やはりこの街にいる人間は人を人と思わないロクでなしだ、と思い直しながら走って角を曲がったネイサンは、次の瞬間体が浮いて視界が回ったのを感じた。 「えっ……!?」  ドサッという音と衝撃と共に、何者かに地面に組み伏せられたネイサンは、自分の状況を理解して一気に体が強張った。  ――――やられた。角の向こうを確認せずに走ったのは迂闊だった。あの子どもはどうなった? 「危ない」 「……は?」  この街のどこにでもいる、誰にでも喧嘩を売る暴漢の類に襲われたと思ったネイサンは、自分の上から聞こえる淡々とした幼い声に言われたことが一瞬理解できなかった。身体も頭もフリーズしたネイサンを他所に、彼の上に乗っていた人物はあっさりとネイサンを解放する。 「あんな勢いでどこ行く気だったの?」  地に伏したままのネイサンに向かって、その人物――彼の雇い主はしゃがみこんでそう問いかけた。自由になったことに気付き慌てて体を起こして辺りを見たが、自分たち以外に誰もいない。ネイサンが想像していた自分を襲った荒くれ者なんて影も形もなく、ただ見慣れた薄暗い路地裏――不定期に並ぶ目に痛いネオン看板に、興味無さそうにこちらを一瞥して消える近隣住民――があるだけだった。 「ま、まさか――」  この、目の前の子どもが自分を?  その疑問を問い掛けようと雇い主に改めて目線を戻して、ネイサンは思わず口をつぐんだ。ネイサンを組み伏せた拍子に外れたのか、顔を隠していたフードが外れその正体が露わになっている。  光の弱い街灯しかない中でもわかる、鮮やかな朱色の髪に白い肌。髪の間から覗く耳は、コウモリのような黒い三角形をしていてリング状の金のピアスがついている。そして一番印象的なその瞳――――店でネイサンを射抜いた金色の瞳で無表情にこちらを見ているのは、10歳前後にしか見えない幼い少女だった。  声の高さから薄々感じてはいたが、まさかこんな幼気な少女がつい最近18になった男である自分をあっさり組み伏せたのか。にわかには信じがたく、しかし状況的にそれ以外あり得ない現実にネイサンは眩暈がする思いがした。この星に来て世界の広さを痛感したのは確かだが、ここまで予想外のことは理解の範疇を越えすぎている。 「……なに?」  いつまでも無言だったからか、目の前の少女は無表情のまま問いかけてきた。それを見て、ネイサンは慌てて言葉を探す。何を言おうとしていたんだったか。ああ、確か―― 「あの……きみが僕を、倒したの……?」  信じられない気持ちで、こちらを見ている相手に問いかけると、問われた方は一度瞬きをした後、「うん」とあっさり頷いた。 「ぶつかりそうだったし。避けても良かったけど、そしたらどっか走っていきそうだったから」 「……だからって人を組み伏せることある!?」  止めるにしたって、もう少し他にやり方があっただろう。  思いがけなさ過ぎるコメントに、思わず素のツッコミが出た。そんなネイサンに、少女は少し間を置いてから小首をかしげる。 「他になにかあった?」 「う、嘘でしょ……」  人を人と思わないとは言ったけど、これはなんか違う意味で人を人と思ってないのでは?  これまでとはまた違う、常識はずれの発想をする人間を目の前にしていると感じたネイサンは、思わず深いため息とともに脱力してしまった。どこか行きそうな同行者を止めようと思って組み伏せる奴がこの世にいるか?  そんなネイサンの困惑なんて眼中にないようで、雇い主はすっと立ち上がる。 「動ける? 行くよ」 「あ、ちょ、ちょっと待って」  また置いていかれたら堪らない、とネイサンは慌てて立ち上がった。走った勢いのまま組み伏せられたので体のどこかを痛めた覚悟をしていたが、不思議と特別痛い箇所はどこにもない。それを意外に思いつつ、そんなことより早く支度しなくてはと手早く服の土ぼこりを払って前を向くと、少女は既に外れたフードを被り直して歩き出そうとしていた。  待ってって言ったのに、と思いながらその後を追う。呼び止めようにも名前を知らない、と思ってから、まだ雇い主からほとんど何も聞かされていないことにネイサンは気付いた。 「あの、どこ行く、んですか? えーっと……」  相手が明らかに自分より年下なことと、さっきから敬語が崩れてる自覚がある分変な言葉遣いになってることに気付きつつ、追いついた雇い主に問いかける。まずは名前からだ。とりあえず、なんて呼びかけたらいいかくらい知りたい。 「ブラッディビー、さん?」 「…………」  店主に呼ばれてたのはこの名前のはず、とその呼び名を呼んだ途端、雇い主は足を止めてネイサンを振り返った。その顔は、これまでで一番嫌そうにしている。  何か間違えたか、それとも自分が呼んだらまずかったか。しかし、もう呼んでしまったものは撤回できない。焦りから背中を嫌な汗が伝うのを感じながら、ネイサンは相手の出方を待った。 「それ、やめて。好きじゃない」 「す、すいません……」  理不尽に怒鳴られるわけではなかったのは良かったが、淡々と怒られてしまった。だが、ネイサンの方だって言いたいことが無いわけではない。 「でも、まだ名前を聞けてないから……」  ネイサンのその言葉に、雇い主は嫌そうな顔をやめて瞬きをした。 「そうだっけ?」 「……え、本気で言ってる?」  本当にただ言い忘れていただけのような反応に、思わずまた素のツッコミが出てしまった。本当に何なんだこの雇い主は。 「――イェト」 「……え?」 「イェト。私の名前」  聞いたことのない響きだった。その不思議な音を半ば無意識に口の中で転がしたネイサンに、雇い主――イェトが問い返す。 「お前は?」 「……え?」 「お前の名前。名乗られたら名乗り返すものなんじゃないの?」 「それは……」  そうだ。名乗られたら名乗り返す。『普通の人間』なら当たり前のことで、一年前のネイサンなら当然としか思わなかったこと。だが、。  ――わざわざ『奴隷』にその名を尋ねる人間など、スフィリスにはいないのだ。 「……ネイサン。ネイサン・ホーキンス」  ちゃんと人に自分の名前を名乗ったのは、久しぶりだった。特に苗字なんて、持っていることがバレたらそれだけで馬鹿にされる。この街の人間は、そんなロクでなしばかりだ。 「そう。ネイサンね」  しかしイェトは、明日の天気を聞いたかのように何でもない様子で頷いた。 「じゃあネイサン、行くよ」 「……ど、どこに?」  そのまま歩き出すイェトのあっさりした様子に、戸惑い半分慌て半分で後を追う。その隣に並び立ったネイサンを横目で見上げ、イェトは淡々と言った。 「――船を、もらいに」  
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