第一章~婚約破棄~

10/47
前へ
/48ページ
次へ
 もう、もう……陽平のやつ!  ぼくは、憤懣やるかたない気持ちで、スマホを鞄に突っ込んだ。まだ、陽平の苛立たし気な声が、ぐるぐると心にとりついて離れへん。   「蓑崎さんが邪魔やなんて、言うてないやんっ。ぼくはただ……」     もっと、二人きりの時間が欲しいって――それだけなんやって、なんでわかってくれへんのやろ。それとも、陽平はぼくに対して、ちっともそういう気持ちがないの?  ぐっと唇をかみしめたとき、鞄の中のジュンク堂の袋が目に入った。    ――あっ、桜庭先生の新刊……    二人でずっと楽しみに待ってた、シリーズの下巻。  センターに行く前に受け取りに行って……そのときは、陽平とケンカするなんて思ってなかった。  顔見知りの店員さんが、わざわざサイン本をとっといてくれたんよ。「陽平、喜ぶやろうなぁ」って、ワクワクしてたはずやのに。   「……はあ」    とさ、とパイプ椅子に腰を落とす。  怒りがしゅるしゅると萎んで、とっぷりと悲しい気分になってきた。  ……やらかしちゃったのかな。ただでさえ、すれ違いが多い生活やのに。わざわざケンカせんでも良かったのかも。    ――ぼくのアホ。初心を忘れないって、思ったとこやったのに……    しょんぼりと本の袋を撫でていると――カチャ、と控えめな音を立ててドアが開く。   「成、いいか?」 「あっ……宏兄」    ぼくは、慌てて笑顔を作った。  宏兄は、不思議そうに片眉を跳ねさせて――ドアを開け放すと、穏やかな声で言う。   「立花先生がさっきいらっしゃったんで、品物をお渡ししたよ。お前に「よろしく」って言ってた」 「えっ! どうして」    呼んでくれたらよかったのに――  目を丸くするぼくに、宏兄はすまなそうな顔になった。   「ごめんな。その、取り込んでるのかと思って、声を掛けなかった」 「!」    痴話げんかが聞こえていたと言外に知らされ、頬が熱を持った。   「ご、ごめんなさい、騒がしくしちゃって」 「あ、いや――いいんだ。気にするな」    恥ずかしさに項垂れていると、ドタバタと宏兄が歩み寄ってきて、背をさすりだす。「大丈夫だから」と、優しい声で励ますように、何度も言いながら。    ――宏兄……かわんないなぁ……    大きい手が背骨の上を行き来するたび、たちまち子供に戻ったような気持ちになる。  小さなころ、ぼくがぐずると宏兄は決まってお膝に乗せてくれて。「大丈夫だよ」って今みたいに背をさすって、辛抱強くあやしてくれたんだよね。  ぼくは、顔を覆った手のひらの中で、ぎゅっと目を閉じる。  それから、ぱっと顔を上げて笑った。   「ありがとう! 復活しました」 「そうか? 何かあったなら、言ってくれよ」    宏兄の顔中に「心配だ」って書いてあった。大ざっぱな割に、心配性の宏兄らしい。  ぼくは、にっこりと力強く頷く。   「ううん。ちょっとぼくが、ワーワー言うただけなん。明日には、けろっとしとるから」 「そうか……?」    宏兄は何か問いたげにしつつも、頷いてくれた。  ほっとして、胸をなでおろす。ぼくも大人やし、恋人とのささいなケンカくらいで、心配かけたくないもんね。           「長居しちゃった。ぼく、そろそろ……」 「なあ、成」    お暇しようかと腰を上げたとき、宏兄がふとぼくを呼び止める。   「ん?」 「この後、ちょっと時間あるか?」    穏やかな目に見つめられ、ぼくはきょとんとする。  時間……というと、余ってるくらいだ。ケンカをしたあとで、陽平は帰ってこないだろうし。何より、ぼくも一人の家にいたくない。  ぼくは、意気揚々と鞄を肩から下ろした。   「ぜんぜん大丈夫やで! お店の仕込み、するん?」 「いや。あのな……実はこのところ、かなり書けたんだ。だから、成に”あれ”を頼みたくてさ」    宏兄は照れくさいような、誇らしいような表情で、しきりに顎を擦っていた。  ――書けた。  言葉の意味を飲みこんで――ぼくは、ぱっと胸に花が咲いたみたいになる。   「うんっ、もちろん!」    それは、半月ぶりの「お手伝い」の依頼だった。   何度も頷くと、宏兄はぱっと明るい顔になる。   「ちょっと待っててくれ! 原稿を持ってくるから」    どたばたと二階の居住スペースへ、階段を駆け上がる音がする。  ぼくは、わくわくした気持ちで、鞄からポメラを取り出した。ここ半月、出番はなかったけど、お店には欠かさず持ってきていた。  いつ、出番があるかわからなくても、その時をぼくが心待ちにしていたから。   「――待たせた!」    息を切らした宏兄が、机の上にどさどさと大量の原稿用紙を投げ出した。どれも、力一杯文字を書きつけられて、その名残かよれていたり、鉛筆が擦れて黒く汚れていたりする。   「宏兄、いつもどおりでいい?」 「ああ、頼む。全部じゃなくていいぞ。また、あとで直しが来ると思うし……」 「いいよ! そしたらまた打つもん」    申し訳なさそうな宏兄に、ぼくは心からにっこりする。    ――だって、これは宏兄によって磨かれている宝石なんだもの。    うずうずした気持ちで、一番上の一枚を手元に引き寄せた。  原稿用紙の枠外に、いつもどおり右肩上がりの文字の署名がある。  『桜庭宏樹』――宏兄の、もう一つの名前が。    
/48ページ

最初のコメントを投稿しよう!

86人が本棚に入れています
本棚に追加