第一章~婚約破棄~

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 桜庭宏樹先生は、本名も写真も公開していない。わかっているのは年齢ぐらいで、「いったいどんな人なんだろう?」とファンの間で謎に思われてる作家さん。  やから――その正体は、ぼくの幼馴染の宏兄だってことは、僅かな人しかしらない秘密。   「成、今日から『ひいろの研究』だぞー」 「うんっ」    宏兄は子どもの頃から小説が大好きで、ぼくにもたくさんの本を読み聞かせてくれた。   とくに、ミステリーは数えきれないくらい。ホームズにいたっては、ぜんぶ宏兄の声で再生されちゃうくらい、くり返し読んでもらったと思う。おかげで、ぼくも立派なミステリー好きになったんよね。  でもね。  ぼくが一番好きやったのは――宏兄のお兄さんたちも、先生たちもそばにおらん、二人だけのとき……宏兄が、ナイショでお話してくれる、オリジナルの物語やった。   「ひろにいちゃん! 前話してた続き、きかせて」 「ちょっと待ってな。学校で、ノートに書いてきたから!」    ぼくは、宏兄のつむぐ物語が、本当に大好きで。宏兄が寂しがるくらい、「続き・続き」って言っちゃうこともあったっけ。   ――成! 賞とったぞ!    宏兄が十七歳のころ、応募した小説が賞を取ってデビューが決まったとき、本当に嬉しかった。  自分の夢をかなえて、立派につづけてる宏兄。本当にすごいよね……!  ぼくは幼馴染として、いちファンとしても、尊敬してるんだ。        ――カタカタ……  キーの叩く乾いた音が、休憩室に響いていた。綺麗に揃え直した原稿用紙の山は、すでにのこり半分くらいに減っている。   「出来たっ……次!」    出来上がりの方に積みなおし、新たに一枚引き寄せた。そこに記される内容を読んで、ハッと息をのむ。    「……えっ、そんなとこにアレが!? ど、どういう? はよ続き……!」    ぼくは物語に興奮しながらも、せっせとキーを叩き、小説を清書していく。  大切な原稿に誤字・脱字をしないように、細心の注意を払わなきゃ。――ああ、でも。続きが気になって、どうしても気が逸るのをとめられへん。    ――いちばんに桜庭先生のおはなしが読めるなんて、ありがたすぎるんやもん……!    ひょんなことから、宏兄の原稿の清書を任せて貰えるようになって、はや数年。物語が磨き抜かれていく過程に触れられる僥倖には、いまだに慣れない。もしかしたら、ずっと無理かも。   「成ー、晩メシできたぞ。ちょっと休まないか」 「あっ……宏兄!」    ふと降ってきた声に、はじかれたように顔を上げる。休憩室の入り口に、湯気の立つお盆をたずさえた宏兄が立っていた。  宏兄、ごはんしてくれてたんや。いつの間に――っていうか、おらんくなってたことにも気づかんかった。   「わあ、ごめん……! 晩ごはんまでお世話になっちゃうなんて」    慌てて原稿をぜんぶ抱えて、机に広いスペースを作る。   「そりゃ俺の台詞だろ。遅くまでありがとな?」    宏兄は、表情を和ませる。  おいしそうなおうどんと、野菜の煮物が机に並んだ。お出汁のいいにおいに頬が緩む。宏兄も対面に座ったのを見計らい、そろって手を合わせた。   「じゃ、いただきます」 「いただきますっ」    あいさつの声が重なると、ほっこりと胸が温かくなる。  ぼく、親しいひとと食べるごはんほど、美味しいものはないって思う。――センターでは、一人でご飯を食べる習慣だったから、小説やテレビで見る「だんらん」ってものに、すごく憧れていたんだ。   「ふぅ……」    うどんを箸ですくって、軽く吹いて啜る。お出汁がきいてて、美味しい。宏兄は食べるのがはやくて、ひと啜りでうどんが半分も消えていた。どんな頬の筋肉してんのやろ……?   「成。油あげ、熱いから気をつけるんだぞ」 「はーい」    大きいおあげに息を吹いていると、からかうように宏兄が言う。  「子どもとちゃうのに」と思う反面、そういうのが嬉しい気もするから、幼馴染って不思議やねえ。  ぼくは、「そうだ」と気になっていたことを聞く。   「ねえ、宏兄。この小説、いま貰った分で最後まで行く?」 「いや……三合目くらいかな」 「わ、そうなんや!」    ぼくはお箸を握ったまま、軽くのけ反った。    ――す、すでに犯人と思しき人物が出てるのに、まだそんなに。ってことは、これから何かあるんだ。うわあ、最初の方、もっぺん読み返させてもらってもええかなあ……?    さすが桜庭先生の小説は一筋縄じゃいかない、と胸が躍る。  ぼく、宏兄の小説で犯人当てれたことないの。陽平は「伏線見落としすぎ」って笑ってくるけど、そういうあいつもちょこちょこ間違ってるから、イーブンやんねえ。  すると、宏兄が申し訳なさそうに肩を竦める。   「わるい、また長編だ。うち直してもらう分、お前の負担もでかいのに……」 「宏兄ってば、何言うてんの! むしろ、たくさん読めるなんて、最高やからね」    ぼくは、あははと笑って手を振った。――大好きな作家の話が長くて、いやがるファンがいるはずない。   「そ、そうか?」 「そうなの!」  「毎度、上中下~とかだと、「かったりいな」とか思わないか?」 「思わへんって。ふつうに、たくさんあった方が嬉しいやん」    ぼく、腹八分目とかないし、舌切り雀やと大きいつづら選ぶタイプやし……と指を折って言う。宏兄は目を丸くして、ぷっとふきだした。   「成らしいなあ」 「えへ。でも、絶対ぼくだけと違うよ。楽しみにしてるから、頑張って」 「うん……ありがとう」    どこか面映ゆそうな笑顔に、ぼくもにっこりする。  宏兄は、お出汁を一気に飲み干すと、どんぶりをトン! と置いた。   「よしっ! そうと決まれば……どんどん書いて、成を困らせてやるとするか」 「わあ、やった!」    宏兄の清々しい笑顔に創作意欲が漲っていて、嬉しくなる。  ぼくも急いで食べ終わるべく、どんぶりに向き合った。    
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