86人が本棚に入れています
本棚に追加
翌日――ぼくは午前中から、『うさぎや』に来てた。
「……」
お店はお休みの日なんやけど、休憩室での「お手伝い」に来たん。一心不乱に、キーを叩いて、お昼を少しすぎたころ――
「やった……宏兄、できたよ!」
ぼくは歓声を上げて、ぱっと手を上げた。渡された新作の原稿の清書が、ぜんぶ終わった。うず高く積まれた原稿用紙を見て、満足感に笑みがこぼれる。
「おおっ。ありがとう、成!」
対面で、別の原稿の執筆をしてた宏兄が、ぽいと鉛筆を放り出す。差し出された大きな手を、ぼくも笑顔で握った。
握手した手を、ぶんぶん振り回す。
「いやー、助かった! さっそく今夜、百井さんに見てもらうよ」
「よかったぁ! 楽しみやねっ」
百井さんって、宏兄の担当さんなんよ。今夜、別のお仕事の打ち合わせがあるそうなんやけどね。
宏兄ってば、二日前から筆が乗っちゃったとかで。――なんと、新作の原稿の、上巻部分を書き上げてしまったんやって!
それやったら、この原稿も読んで欲しいやん。
一通りの家事を終えた後、興奮気味の宏兄から「出来たぞー」って連絡があって……大慌てで飛び出してきたんよ。
「休みの日だったのに、来てもらって悪かったな」
はしゃいだことに照れているのか、宏兄は咳払いする。ぼくはくすくす笑いながら、首を振る。
「全然! 続き、めっちゃ気になってたしっ。すっごい面白いから、百井さんにも、はやく読んでもらいたいもん!」
「成……」
熱弁をふるうと、宏兄が目をやわらかく細めた。
さっそく、宏兄のパソコンにデータを移動させて、内容をさっと確認してもらった。宏兄は異常に読むのが速いから(ぼくには黒い線が走るようにしか見えない)、あっという間に最後のページに到達する。
「……どうやった?」
順番とか、なにか間違えてないかな……?
ドキドキしながら返事を待つと、宏兄はしかつめらしい顔で言う。
「うん……すごく良い作品に見える。俺の汚い字じゃー、こうは読めないな」
「ふふっ、何言うてんの!」
軽口を言う宏兄に、おかしくなってふきだした。――元が最高やのに、へんな謙遜するんやから。
宏兄は、執筆のときだけかけている眼鏡を外し、顔いっぱいで笑った。
「よっし! じゃあ、ちょっとおやつでも食うか。成、何食べたい?」
「わあ、いいの? じゃあ……」
宏兄のおやつ! 嬉しくて、ぱっと立ち上がったぼくやけど――時計を見て、はっとした。
急に固まったぼくに、宏兄は不思議そうに首を傾げてる。
「どうした?」
「あ……ごめん、宏兄! おやつ、また今度がいいっ。だめ?」
がば、と両手を合わせると、宏兄は目をまん丸くする。
「え――うん、いいけど。どうした、用事だったか?」
「ううん。あの、今日は、陽平のお友達が、お家にくるんよ。そろそろ買い物とか、しときたくって」
ぼくは、頬をかいた。
今朝、陽平がな。今夜、「晶を家に呼ぶから」って言うてきたん。普段はいきなり連れてくるのに、わざわざ言うてきてくれて。
やから、ぼくもちゃんとおもてなししようと思ったん。
宏兄は、「ほう」と顎を撫でた。
「そっか。買い物行くなら、車出すぞ?」
「ありがとう……! でも、大丈夫やから」
ぼくは、笑顔で首を振る。
宏兄、夢中になったら寝食を忘れちゃうから……今日かて、ぼくが差し入れに持って来たおむすび食べて、「うーん、ひさびさのメシは美味いなー!」とか言ってたくらいやもん。怖すぎる。
「いや、それくらい平気……」
「あかん! 宏兄、昨日も徹夜なんやろ? 打合せまで、ちゃんと休んで」
今は元気でも、あとで我に返って眠くなるはずやから。ぼくの用事に付き合わすなんて、絶対できひん。
断固として断ると、宏兄はがっくりと肩を落とす。
「すまん……今度ぜったい、埋め合わせさせてくれな」
「うんっ」
帰り支度を済ませて、勝手口からお店を出る。見送ってくれた宏兄に、手を振った。
「おやすみ、宏兄。ホットケーキ、楽しみにしてるね!」
「ああ! かえり、気をつけてなー」
ぼくは、足取り軽く歩き出す。
ちょっとしてから、後ろを振り返ると……宏兄は、まだ手を振ってくれていた。
最初のコメントを投稿しよう!