第一章~婚約破棄~

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 翌日――ぼくは午前中から、『うさぎや』に来てた。   「……」    お店はお休みの日なんやけど、休憩室での「お手伝い」に来たん。一心不乱に、キーを叩いて、お昼を少しすぎたころ――   「やった……宏兄、できたよ!」    ぼくは歓声を上げて、ぱっと手を上げた。渡された新作の原稿の清書が、ぜんぶ終わった。うず高く積まれた原稿用紙を見て、満足感に笑みがこぼれる。   「おおっ。ありがとう、成!」    対面で、別の原稿の執筆をしてた宏兄が、ぽいと鉛筆を放り出す。差し出された大きな手を、ぼくも笑顔で握った。  握手した手を、ぶんぶん振り回す。   「いやー、助かった! さっそく今夜、百井さんに見てもらうよ」 「よかったぁ! 楽しみやねっ」    百井さんって、宏兄の担当さんなんよ。今夜、別のお仕事の打ち合わせがあるそうなんやけどね。  宏兄ってば、二日前から筆が乗っちゃったとかで。――なんと、新作の原稿の、上巻部分を書き上げてしまったんやって!  それやったら、この原稿も読んで欲しいやん。  一通りの家事を終えた後、興奮気味の宏兄から「出来たぞー」って連絡があって……大慌てで飛び出してきたんよ。   「休みの日だったのに、来てもらって悪かったな」     はしゃいだことに照れているのか、宏兄は咳払いする。ぼくはくすくす笑いながら、首を振る。   「全然! 続き、めっちゃ気になってたしっ。すっごい面白いから、百井さんにも、はやく読んでもらいたいもん!」 「成……」    熱弁をふるうと、宏兄が目をやわらかく細めた。  さっそく、宏兄のパソコンにデータを移動させて、内容をさっと確認してもらった。宏兄は異常に読むのが速いから(ぼくには黒い線が走るようにしか見えない)、あっという間に最後のページに到達する。   「……どうやった?」    順番とか、なにか間違えてないかな……?  ドキドキしながら返事を待つと、宏兄はしかつめらしい顔で言う。   「うん……すごく良い作品に見える。俺の汚い字じゃー、こうは読めないな」 「ふふっ、何言うてんの!」    軽口を言う宏兄に、おかしくなってふきだした。――元が最高やのに、へんな謙遜するんやから。  宏兄は、執筆のときだけかけている眼鏡を外し、顔いっぱいで笑った。   「よっし! じゃあ、ちょっとおやつでも食うか。成、何食べたい?」 「わあ、いいの? じゃあ……」    宏兄のおやつ! 嬉しくて、ぱっと立ち上がったぼくやけど――時計を見て、はっとした。  急に固まったぼくに、宏兄は不思議そうに首を傾げてる。   「どうした?」 「あ……ごめん、宏兄! おやつ、また今度がいいっ。だめ?」    がば、と両手を合わせると、宏兄は目をまん丸くする。   「え――うん、いいけど。どうした、用事だったか?」 「ううん。あの、今日は、陽平のお友達が、お家にくるんよ。そろそろ買い物とか、しときたくって」    ぼくは、頬をかいた。  今朝、陽平がな。今夜、「晶を家に呼ぶから」って言うてきたん。普段はいきなり連れてくるのに、わざわざ言うてきてくれて。  やから、ぼくもちゃんとおもてなししようと思ったん。  宏兄は、「ほう」と顎を撫でた。   「そっか。買い物行くなら、車出すぞ?」 「ありがとう……! でも、大丈夫やから」    ぼくは、笑顔で首を振る。  宏兄、夢中になったら寝食を忘れちゃうから……今日かて、ぼくが差し入れに持って来たおむすび食べて、「うーん、ひさびさのメシは美味いなー!」とか言ってたくらいやもん。怖すぎる。   「いや、それくらい平気……」 「あかん! 宏兄、昨日も徹夜なんやろ? 打合せまで、ちゃんと休んで」    今は元気でも、あとで我に返って眠くなるはずやから。ぼくの用事に付き合わすなんて、絶対できひん。  断固として断ると、宏兄はがっくりと肩を落とす。   「すまん……今度ぜったい、埋め合わせさせてくれな」 「うんっ」    帰り支度を済ませて、勝手口からお店を出る。見送ってくれた宏兄に、手を振った。   「おやすみ、宏兄。ホットケーキ、楽しみにしてるね!」 「ああ! かえり、気をつけてなー」    ぼくは、足取り軽く歩き出す。  ちょっとしてから、後ろを振り返ると……宏兄は、まだ手を振ってくれていた。    
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